煙の密室

 安いからとギリシアでよく食べていたギロと同じようなものを坂の途中の店で買い、黒海沿いの公園で日陰を見つけてむしゃむしゃと。バザールを歩くものの、金や服が多く興味をもてなかった。「ノルウェイの森」もこの旅ですでに3回目になる。他に特に何をするわけでもない。小説を読みたいが手持ちはもうない。
 よし、ならば、と発想を転換し、文房具屋でノートとボールペンを買った。自分で何かを書いてみようというわけだ。メイダン公園のチャイハネで木陰の席を陣取り、チャイを頼む。しかしここは公園なのか、噴水を囲んだチャイハネなのか。公園としての敷地のほとんど全てがチャイを楽しむ人のための席が設けられている。隅の方には、小屋のような郵便局が開いているくらいだ。
 自分で書くというこの行為がかなり楽しく、時間がどんどん過ぎゆくことを知る。20ページくらいぐいぐいとページが進んでいく。チャイをあと2杯お代わりして、アイラン(しょっぱい飲むヨーグルトのような飲み物)も頼んだ。けれど、結局のところ、僕はずぶの素人に過ぎない。エピソードや人物はどれもどこかで見たことがあるようなステレオタイプなものか、あるいはきわめて個人的なことを文章化してしまっただけだということに気付くには時間はかからなかった。だけど、何かしらおもしろく価値あるものを書こうというよりも、時間をつぶそうということの方により重きがあったのだから、それからすると悪くない時間のつぶし方だったのかもしれない。
 夕方にはオトガルまで切符を買いに行った。次はグルジアへ行くのだ。「学割ある?」「ノー」とそっけなく言われたが、ダメもとで国際学生証を示してみると少々値引きをしてくれた。25ドル。制度としては学割はなく、ひょっとしたら係員個人が適当に判断をするのかもしれない。彼の手元の座席表には、US40$やUS45$などとまちまちに記入されていた。幾ばくかのドル現金は持っていたが、これはグルジアの宿代として使うつもりで、トルコリラで支払った。いざという時のためにやはりドルがあると心強い。
 「午後6時に出て、夜12時に着く」と説明されたが、本当にそんなものなのか。「たったの6時間で?」と質問したが、答えは「イエス」であった。けれどもチケットに記載された時間を見るときっちりと「18」とあった。いずれにせよ、最速で18時間と考えておいた方がよいだろう。短い時間を期待して「まだか、まだか」と思うよりは、長めに考えておいて「お、意外に早かったな」もしくは「やっぱり、こんなもんだろう」ととらえられる方が精神衛生上よい。
 だが実際のところ翌日の夕方になってバスが動き出したのは、予定からほぼ1時間遅れてからだった。乗客はこの時点でわずか4人にすぎない。オトガルを出たバスは、エジプシャンバザールの脇の店の前に立ち寄り、人と有り余るほどの荷物を客席に積み込む。座席を取り外してまで荷物を載せる。そして、結局トラブゾンを出発した時は、すでに夜の8時だった。
 眠ろうとしたものの、タバコの煙が車内に充満している。しかもバスの窓は開けられる構造にない。トルコ国内の長距離バスは法規制によって禁煙となっていて、これまでは快適だったのだが。
 僕は、はっきり言ってタバコが大嫌いだ。街で、前を歩く人が吸っていると追い抜くくらいだ。煙の匂いが心情的に不快であると同時に、肉体的にも頭痛やのどの痛みを伴うからだ。そしてそれは決して一過性のものではすまないのだ。僕とは無関係であるべき人によって害を受けるのは、理不尽としか言いようがない。僕の場合、タバコを憎んで人を憎まずではなく、他者に害を与える状況で吸う人間に対しては憎悪すら感じる。彼らには想像力が欠如している。
 休憩のためにバスが止まる。真っ当な空気を吸うために外に出る。コーラをのみたいと切実に思う。だが、煙が口にものどにも残っていて、その液体はざらりとした気色の悪い感触を伴って胃に流れ落ちる。他の乗客はビールを飲んでいる人も多いが、密室の拷問にすっかりまいって飲もうという気すら起きない。
 夜が更けると乗客は眠りに就き、結果として喫煙者は減る。だが、一人だけ吸い続ける男がいる。運転手だ。たかだか数時間しかバスに乗っていないのに、ぐったりと打ちのめされた気分で、黒海に沿って東へ進んだ。
 左手には黒々とした静かな海。虚無のようにも見える。右手は岩の壁。まだ道路が整備されていないのか、あるいは落石が頻発しているのか、巨大な岩がごろごろと転がる道をバスは進む。岩が頻繁に出現するため、速度を上げられない。右に左に岩や穴を避けながら、緩慢に走る。
 日付が変わって30分が経過。国境だ。
 トルコ側の出国審査の時に、パスポートから外れかけていた日本の出入国カードがついに取れてしまった。中立地帯を越えた先の鉄扉には、頭を剃り上げた若い兵士が立っている。心臓がきゅっと緊張する。体のどこかに不自然に力が入ってしまう。3人ずつ順番に門をくぐることを許される。30センチ四方の窓からパスポートを入国管理官に差し出す。こちら側に向かって電気スタンドが照らされている。まるで安っぽい警察ドラマのようだ。紫色のライトでヴィザを照らし、他の人よりも時間をかけて入念に検査される。ヴィザに貼付された銀色のシール(光の具合によって虹色に光る)の真偽を見ているのだろうか、それとも何か特殊なインクで印刷された文字でも浮かび上がるのだろうか。次の窓口ではコンピュータになにがしかのデータが入力された。税関ではぽつねんと立つ係官にパスポートを提示。
 そして最後に3人くらいの係官がいた。万一賄賂が要求されるようだったら、とりあえず分からないふりでもしようかと身構えていたが、「英語を話せるますか?」と機先を制された。「イエス」と答えるしかなかろう。「どこへ行きますか」「日本ではどこに住んでいますか」と簡単な質問を受ける。特に何事もなく、「グルジアへようこそ」と。


戻る 目次 進む

ホームページ