最後のネジ

 トルコでは目にしなかった川をそこかしこに見かける。緑も豊富だ。ひっそりした感はあるが、拒まれるというよりは受け入れられるという感覚を得る。
 バスは、とんでもなく遅い。隣に座っていた男性は、ビジネスで訪れるらしく、多少グルジアについての知識を持っていた。エジプト人だという。「新しいビジネスチャンスを求めて」というのが旅の理由だった。彼自身が何事かの事業を行うのではなく、「こういうのがある」という情報や手法、あるいは取引先を紹介する仕事なのだと。その説明の一環として、パンフレットの束を見せてもらった。包装紙の印刷やタイル、あるいはインテリア製品など様々な業種をグルジアへ導入する狙いのようだ。
 僕がイスタンブールで買ったヨーロッパの地図帳では、トルコの西端のページに、半分だけグルジアが引っかかって掲載されいた。標識はロシア文字だが、なんとか雰囲気で街の名前くらいは拾える。地図上で一向に進まない道程を確認していると、彼、レヒーム氏が教えてくれた。「黒海沿いの街、バトゥーミは以前はリゾートだった。これから、この国が盛り返したら、またにぎわうかもしれない」
 彼はアメリカに住んでいたこともあり、英語には不自由はなかった。それは文法的に完璧、というわけではなかったが、言いたいことが英語の体裁を持って矢継ぎ早に発話された。「ほら、日本で有名だったオチンというドラマがあるだろう。エジプトでも放送されていたんだが、私も好きで、二回見たんだよ」
 僕はそのドラマのタイトルに首をひねらざるを得なかった。だが、会話が沈黙に変わって程なく、「ああ、それはおしんだ!」「そうそう、そのオチンだよ」
 一体、トルコからグルジアへ向かうおんぼろのバスの中で、隣り合わせたエジプト人と英語で話しながら、まさかあの「おしん」が話題になるとは想像だにしなかった。
 トローリーバスの行き交うクタイシという大きな街を通り抜けた。また地図で確認する。道は遠い。山をいくつか越える。昼食をとる場所で、ビールだけ飲んだ。グルジアの通貨を持っていなかったので、1ドルを支払った。ただ、それがこの国の価値でいかほどなのかはまったく分からない。
 錆びて朽ち果てている貨車や、見捨てられたような工場の残骸などが、昼の光の中に音もたてず存在している。かつては、力強く大地を走り、あるいは煙を吐きだしながら何かを生産していたのだろう。陽光のもとで、それらは急にセピア色のスクリーンに映し出された象徴のように見える。国家、主義、そして過去といったものをその映像の制作者は意図しているのかように。
 太陽の力が弱まり始めたころ、目的地ティビリシに入ったことを示す標識を通り過ぎた。そのとたん、バスは警察によって停車させられる。わいろを欲しての行為、と乗客が教えてくれた。ここでまたしばらく足止めをくらう。
 「ホテルをまだ決めていないのなら、私が泊まるところへ一緒に来てはどうだい」と、願ってもないレヒーム氏からのお誘いがあった。なんとかバスが到着し、タクシーに共に乗り込む。20年ほど乗った車を、廃車置き場で5年ほど野ざらしにしたような黄色い乗用車だった。
 グルジアの首都ティビリシの街をどう形容したらよいのだろうか。確かに道路は舗装されているし、車も走っている。鉄筋コンクリートの建物も建っている。歩道には街路樹だって並んでいる。だけれども、ありとあらゆるものが、それぞれに「なれの果て」として存在し、街を構成している。あと、わずかにネジを一本引き抜くだけで、全てが静かに瓦解するのではないかとの錯覚を覚える。ある時期にはそれなりに発展していたことを確かに伺い知るが、過去のその時を頂点として、以降は衰弱の一途をたどってきたように見える。例えるならば、どこかの惑星の前線基地。調査の役目さえ果たしてしまえば、あとはメンテナンスもされず、人さえ寄らない。
 そう、人の姿をあまり見かけないというのも、寂寞感の理由になろう。どれだけ薄汚く、どれだけ雑然としていても、人の息吹の感じられない街というのは、僕が今まで通り過ぎた中には見ることがなかった。
 「エジプトに留学しているグルジア人の医者の家」というのが彼の宿泊先だった。真っ暗な階段を、彼はスーツケースを、僕はバックパックを持って上る。
 出迎えてくれたのは、体格のよい老人だった。英語は、できない。レヒーム氏は、おみやげのツタンカーメンのような図柄が入ったお皿を取り出し、にこやかに挨拶をしていた。僕もわけのわからないままに握手をした。
 氏の説明を聞いて、ようやく納得がいった。この老人(名前は結局分からなかった)の娘が医者で、エジプトに留学している。そこでレヒーム氏と知り合った。彼がグルジアに行くという話しをしたら、ならば私の家が空いているから泊まったらいい、ということになっていたらしい。だが、その老人に伝える言葉を持たない僕とレヒーム氏とでは、いったい僕が何者でなぜここにいるのかを知ってもらうことはできなかった。そうであっても、追い返すことなく歓待していただいた彼に感謝の念を持つ。
 荷を置き、順番にシャワーを浴びさせてもらう。ご馳走になった夕食は、トマトと幾種かの野菜との煮込み。コンビーフ、サラミ、パン。そして、シャンパンだった。とても、不思議な光景だ。だが、それを不思議だとか奇妙だとか考えるよりも、とりあえずティビリシに到着し、英語の話せる人が身近におり、寝る部屋が与えられたということの安堵感の方がはるかに勝っていた。


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