否定的な感情の海で

 ゆっくりと眠り続けることで長大な時間をつぶそうかと思っていたけれど、人のざわめきに起こされる。7時半に朝食をとりにカフェテリアへ向かう。パン、バター、キュウリ、塩漬けのオリーブ、トマト、チーズ2種、ゆで卵、ソーセージ一切れ、コーヒー。あまりおいしいものでもないが。
 またまた「ノルウェイの森」を手に取る。これだけ読んでもまだ新しい発見がある。逆に、ここはもう少し何とかなるのでは、という所も次第に見えてくる。
 昨日立てた計画に従って、今日はビールを2本飲むことに決める。明日は1本だが、その分カッパドキアで調達した白ワインを開けることにした。朝食についていたオリーブをいくつか持ち帰っていたので、ビールのつまみにする。
 しかし、船内ではストレスがたまることしきり。閉塞的な空間で、景色には変化がさほどなく、しかも周囲は皆違う文化的背景を持った人々だということの影響もあるだろう。
 甲板でちょうど建物の角になっている部分があっておばあさんが一人本を読んでいた。彼女が去ったあと、そこに座って本を読むと風が吹いてこないのでよい感じである。しばらくの後、気分転換に4、5メートル先の舳先から海を眺めていた。その間にカバンを置いてあった場所の周りに人がたかって、すっかりその一群に囲まれてしまった。昼食より少し前にカフェテリアへ出て、窓際の席を確保できた。ノートと本ををテーブルに置いておきて、食事をお盆にのせて戻ってくると、3人の家族づれがその場所にいてノートと本は脇にずらされていた。まあこれは食事をとりにいく列に早く並んだもの勝ちなのかもしれないが、それにしても人の物を勝ってに動かすのか。
 他者との距離(個人の無意識的縄張り)が日本人のそれよりは小さいと思う。ベンチに座り横にカバンを置いて読書していたら、おっさんが隣にゴロリと寝ころんで、僕のカバンがこちらにずれた。一言くらい断ってほしいものだ。ひょっとしたら、僕は他者との間にとる距離が平均的日本人よりも大きいのかもしれないが、それにしてもである。
 こちらの子どもは頭と目が大きいから、宇宙人のように見える。そんな彼らが走り回ったり、こづきあったりして騒いでいる。それはともかくとして、僕の身体にもたまに接触してしまう。これにはむかっとくる。宇宙人よ、自分の星へ帰りたまえ。首根っこをふんづかまえて、踏んづけてそのまま海に放り込んでやろうかとも思う。しかしだ、自分も昔はあんなのだったのだろうから何も言わない。今、世の中に借りを返しているのだと認識する。
 それ以外にも、タバコには相変わらずいらいらさせられる。船内だろうが、デッキだろうがとにかくいたることころに煙が流れている。潮風に乗ってくる煙を吸い込むとのどが痛み、気分も滅入ってくる。これはトルコに限らないが、基本的にタバコ吸いは想像力が欠如していると思う。しかし特にここの人たちはタバコの煙で迷惑を被っている人間がいるなんてことは夢にも思わないのではないか。何でお前らが吐きだした煙が僕の目の前を通過するのに合わせて僕が息を止めなくてはならないのだ。全世界の喫煙者よ、頭にすっぽり透明なカプセルでもかぶってその中に満たした煙で存分に楽しんでくれたまえ。嗜好品だからという主張は認めるが、もっと自己完結的に(被害をあまり他に及ぼさないように)楽しみにしてくれ。
 他に、舌打ちもよく耳にした。日本人としての文化背景が染み込んだ僕にとってみれば、「チェッ」という音にドキリとさせられ、その後嫌な気分になってしまう。まだある。夕食時に礼によって列に並んでいたら、愛情表現なのだろうが我が子の頭をペットボトルでこづいている親がいた。これを見た僕は、腹に鉛を詰め込まれたような気分にさせられた。人間の頭に対して考えることの違いがここにはある。
 例えば、朝起きて食事をして排便してなんて、どこへ行っても人間のやることは変わらないよなあと思うことも多々ある。そして逆に本当にささいなことが僕の常識と食い違っていることで、イライラするし精神的にくたびれてしまうこともある。だが、そういう体験すらそもそもは僕が自由意識でその場にいるのだということが前提になってはいるのだが。
 肉体的なことを言ってしまえば、腋臭。すれ違うだけで、息が詰まりそうに強烈な人もいる。これは大人だとか子どもだとかはあまり関係がないようだ。鉛筆の芯を煮詰めたようなあの臭いに何度か辟易することがあった。
 夕食は白身魚のフライ、フライドポテト、豆スープ、シシトウらしき野菜、チーズパイ、マカロニトマトソースあえ、パン、サラダ、チョコレートの羊羹のようなデザート(クルミ入り)。食事というのは楽しみなものだ。単調な生活におけるアクセントでもあるし、そもそも食べること自体がとても肯定的な楽しみだから。準備の時間、甲板でかいだトマトソースの匂いに僕は温かな気持ちになれた。
 が、ここでもなじめない、というよりも拒否反応を示してしまうことに出会った。目の前の席についた樽のような体型の老婆。チョコ羊羹を4切れほど皿にのせていた。食事中にはペプシコーラを飲む。サラダにもフライにも、まるで雪のようにたっぷりと塩を振りかける。見ているだけで気分が悪くなる。さらに、パンを残す人々。カフェテリア方式で好きなだけとれるようになっているからか、とりあえずたっぷりと確保しておいて余ったらぽいと残飯入れの容器へ。自分の食べたい分量くらい分かるだろうに。何よりも、食事を残すという感覚に残念ながらなじめない(そういう食文化もあることは知っているが、果たしてトルコはどうなのだろう?)。
 例えば、どこか別の星へ出かけたとしよう。そこの主食が黄色と紫の粘液中をうごめく緑色をしたスライム上の物体だったらどう思うだろうか。極端すぎるかもしれないが、結局はその辺に至るのではないかという種類の嫌悪感を感じてしまう。
 「イライラしてちゃいかんよな」とは思いつつも自分とは違う理論の人があふれていると、どうしようもなくなってくる。それはそれでよいから、僕のささやかな望み、煙の混じっていない空気、ゆっくりと本を読める場所、そんなものを確保させてくれ。
 こういった感情を抱え込むことについて警鐘を鳴らす自分もいるのだが、しかしとりあえずはこのように感じていることは認めよう。この先に発展した段階があるのか、あるならばいずれは進むことができるのかあるいは僕はここで踏みとどまってしまうのか。まずは、見て聞いて感じてそうしている自分を知り、そこから分析をかけるのだ。


戻る 目次 進む

ホームページ