午前5時半過ぎ、力をふりしぼって床から身体を引き剥がす。デッキに出るが、辺りは未だに闇だ。海に昇る朝日を見たかったのだが、もう少し時間がかかりそうだ。再び横になり、7時前にもう一度空を眺めてみるとちょうどよい具合。
暗闇の中でのっぺりと一体化していた空も海も地球も太陽の出現によってその姿を取り戻し始める。曙光によって地球の輪郭が縁取られ、海水の色が徐々に青みを増し白い泡立ちも見えてくる。だが、期待と一つ違ったのは海からではなくバルカン半島の向こうからの日の出であったということ。大したことではないが。
今日はカッパドキアで購入したワインを開ける日と決めていた。船内のバーへ出向き「栓抜きって貸してもらえないだろうか」と頼んだが、返事は「レストランへ行けばあるんじゃないか」というもの。いつものカフェテリアに行ったものの見つからず、デッキのカフェで聞いてみたけれどやっぱりない。これって何か問題じゃないか。
一般乗客用のカフェテリアとは別に、さらに料金を払えば利用できるレストランがあったことを思い出した。そう言えばそちらへ行けば、と気付いたのは夕食時のこと。少々遅かった。結局、今日はワインを飲んだくれる日という計画はあっけなく崩れてしまった。
仕方なく暇つぶしの方策を練る。船から見える海面の面積を計算してみたり(400平方キロ?)、球の体積の公式を導きだそうとしてみたり(どうしても次元が一つ合わない)、Pで始まる英単語を思いつくまま並べてみたり(60ほどで止まってしまった)……とにかく暇なのである。
午後はデッキでのんびり過ごす。とは言え、退屈との闘いであることに変わりはない。その怠惰な雰囲気をうち破ったのは、イルカの出現だった。ほんのわずかな時間だが数頭が海面を跳ねたり、船の横を泳いでいるのが見えた。
水面に見えるのは、他にクラゲもあった。茶色く放射状の模様があるが、それがどうも煙でいぶした沢庵を輪切りにしたように見える。海の色と対照的に、真っ白な白いプラスティック製のビンもぷかぷかと浮かぶ。洗剤か何かが入っていたもののようだ。
タイにも行ったことがあるというトルコ人のおばちゃん、トルコの大学で経営学を教えていたというアメリカ人のおじいちゃんなんかに話しかけられしばし会話する。
風に乗った雨粒が甲板を濡らし、雷が鳴り出した。乗客は船内へと流れていくが、僕は逆に船首へ向かった。今降っている水滴は、直上からではなく前方の雨雲に由来するものが強風によって流されているのだ。雪ならば、風花。
稲妻が走る。前方の海面が二分割されている。降雨によってざわつく海面とそうでない部分。それはくっきりとした境界線であった。船が進むにつれ、その境界が迫ってくる。生まれて始めて見る光景だった。
物好きは僕だけでなかった。先頭にいた若者が「こんな天気が一番好きだね」と言ってきた。僕もだ。台風の荒天なんぞも。
激しい雷雨ではあったが、あっと言う間にやんでしまう。空一面を敷き詰めていた灰色の雲も、跡形もなく水色の空に取って代わられた。再び甲板に人が集う。
重たげな太陽が西の空に傾いてゆく。海に映えるその光は、まるで太陽へと続く一本の道のようだった。
夕食時、目の前の席の男性が「日本人ですか?」と。アメリカの学生で日本人の友人がいるのだそうだ。今日はよく話しかけられる日だ。
あと一晩を床で眠れば、ヴェネチアが待っている。