昨夜一時すぎまで賑やかだった通りは、朝も早くからわいている。そのざわめきにせっつかれるように8時過ぎには起き出した。宿を探しながらうろうろしている途中でインフォメーションの看板を見つけていたので、まずはそこに向かう。何しろ、ガイドブックの類は一切持っていないし、イスタンブールで買った地図帳にはバルセロナの詳細な地図は載っているものの、目的地を把握しているのならそれなりに役立つが、どこを目的にしようかということについての情報は与えてくれないからだ。
まだ中は清掃中だった。9時を待って、今日の一番のりを果たす。スタッフはそろいの明るい色をしたユニフォーム(と言ってもカジュアルなシャツだが)をまとい、それぞれが使える言葉を表す国旗のマークを名札につけている。
「まずはここの地図がほしいんだけど。それで、どういう場所がおもしろいのかおすすめを教えてよ」と言うと、「どれくらいこの街に滞在するかにもよるのだけど」と言って、ギュエル公園、サグラダファミリア、オリンピック競技場、さらには動物園なんかを次から次へと教えてくれた。
観光も重要だけど、それ以上に僕はタイへ戻る便の変更をさっさと片づけておきたかった。マドリード発なのでまあ最悪はそこまで行けば営業所はあるのだろうがと思い、それでもひょっとすればという期待を持って彼に尋ねてみた。ある、といううれしい返事。住所を教えてもらいまずはタイ航空の営業所へ向かう。
通りにはきっちりと名前が付いているので街歩きにはすごく便利だ。途中で見つけたセブンイレブンでパンとヨーグルトとビールを買って、朝食をとる。
雑居ビルの一室で、航空券を示して日時の変更を依頼する。事務員がかちゃかちゃとキーボードを叩き、拍子抜けするほどあっと言う間に7/29日発の便がとれた。到着は現地時刻で翌30日の朝になるという。航空券に変更したあとの便のスケジュールが書かれた小さなシールを貼ってもらって完了。いい出だしだ。
そのまま歩き続けてサグラダファミリアへ出る。でかい、想像以上に。真下からだとかなり首を後ろに曲げて見上げなくてはならない。100年経っても未完の教会。政府などからの援助は受けず、入場券などの収入で建築費用を賄っているのだそうだ。
壁面には聖書の光景が彫刻されている。そこでは聖母の受胎を祝って集う天使や、ゴルゴダの丘を上るキリストなどが描かれている。それは今までに見たことのないタイプの彫刻であった。
エレベーターももちろんあったけど(有料だが)、この天を突く建築物を体感しようと目論んで372段の螺旋階段を二本の足で登る。途中で今来た道を見下ろすと、その螺旋の具合が太古に生息した巨大な貝のように美しい渦を巻いている。
塔と塔を結ぶ渡り廊下から、ぐるっと街を見渡すと他に高い建物もないこともありバルセロナを一望の下に。
これまで建築物を見て感動するということはなかったけれど、これは違う。ガウディによって、自分の知らなかった感覚器と回路が備わっていることをまざまざと教えられた。一見すると奔放に見える曲線を駆使して端正さを導きだし、そうかこんな空間があったのかと気付かせてくれる。ガウディに僕は大きな好感を得た。
ついにヨーロッパまでやって来たことを絵葉書で何人かの友人に伝えた。地下鉄の駅に出るまでの間に意外な店に出会った。アニメグッズショップである。やれやれ、こんな所へ来て綾波やアスカのフィギュアに出会うとは。
バルセロナの地下鉄はとても分かりやすい。路線図もさることながら、車内のアナウンスが分からなくとも次に開くドアの方向や今いる場所などが電光掲示板で表示されている。ただ、ドアは自動ではなかった。冬の雪国のローカル線のように、自分でボタンを押して開くようになっている。ま、合理的だと言えば合理的であるが。
ギュエル公園には彼の過ごした家や、彼の作品がある。モザイクタイルを貼り合わせて形作られるその作品群には、陽気でちょっと間抜けな感じのするトカゲなんかがいた。そこで用いられている青色は、僕の好みだ。スペインの太陽によく似合う。
この公園は街の北部の高台にあって、ここからだと先ほどのサグラダファミリアをも見下ろすことができる。その向こうには二つの高いビルが並び、そして地中海が霞んでいる。
帰りにマドリードまでのバスのチケットをとった。これがヨーロッパで最後の移動になる。宿近くのデパートの総菜売場で夕食を求める。イワシのフライがおいしかった。ここでは食品は地下ではなく階上で売られていた。存在感のあるソーセージなんかがとてもおいしそうに見えた。
知り合った日本人と夜は港へ出てみた。ここも活気に満ち、夜の闇さえも心を浮き立たせる動的な可能性を存分に発揮していた。
バルセロナはとてもよい街だ。かなり気に入った。スペイン語を学ぼうかとさえ思わせるほどだ。これまで訪れた中で、タイに次ぐほどに。それは例えば買い物をしたときに店員がにこやかに「グラシァス」と声をかけてくれるからかもしれない。ここでは居心地のよさは怠惰さと結びつくのではなく、軽快に歩き出せよとばかりに背中をぽんと叩くエネルギーとして存在している。