雨上がりの夜、祝祭

 午前7時半にマドリードへ到着。バスターミナル内にある駅からメトロに乗って、ユースホステルを狙う。大きな荷物を持った2、3人がすでに建物の前で待っている。掃除をしていたおばさんに「9時までは中に入っちゃダメ」と言われた。
 ところが8時半頃から人がたくさん集まり始めどんどん中へ入ってしまう。僕より先に並んでいた人が誰もそれに対して行動を起こさないから、レセプションへ上がって「順番なんだ、僕らはずっと前から待ってるんだから」と伝える。すでにチェックインの手続きを初めかけていたレセプションの女性は「私は知らないわよ、どういう順番なの?」とこちらに訊いてくる。もう少し合理的なシステムがほしい。相変わらず掃除のおばさんの言いつけを静かに守っている人に「チェックインできるぞ」と教えてきっちりと順番を守る。こういう場所では偉大な原則に則って行動するのだ。早いもの勝ちという名の。
 それぞれがユースホステルの会員証を渡し、ロビーで名を呼ばれるの待つ。部屋が空くペースよりも、次から次へと人がやってくるペースの方がずっと速い。早めに来ておいてよ かった。
 ここのユースホステルは外観も内装もとてもきれいだ。ぱっと見はホテル並み。これで950ペセタで朝食までついていると言う。もちろんシャワーやトイレは共同だし、寝床は二段ベッドが並んだドミトリーだけど、かなり宿としては上級の部類に入るだろう。
 マトーチャ駅でインフォメーションを探すが見つからず。地図上のiのマークを頼りに歩くと示された場所から微妙にずれたところにあった。ところがここでもらった地図というのが役に立たない。ほとんどがレストランの広告で埋められている。そこにいた人は空港税の値段さえ知らなかった。
 そろそろスペインもおしまいだから、使用するペセタを控えなくてはいけない。無駄に両替をして余らせても仕方がないからだ。とりあえずは最低限必要な空港税やら食費やらを差し引いてあとどれくらい使えるかを知りたかったのだが。
 そのすぐ近くにあったアメックスのオフィスは非常にしっかりしていて(当たり前なのだが)、空港税は500ペセタだと教えてもらった。手持ちのお金を勘定して、泣く泣く1万円を両替した。使い切ることはないだろうから、空港で再びドルに戻そうと思う。タイでペセタからバーツというのも怪しいものだ。
 マドリードと言えばプラドである。しかし油絵はさっぱり分からない。格好をつけたえらいさんやら、聖書のシーンやらばかりで飽き飽きする。これはまあ僕にその手の素養がないからなのかもしれないが。
 昼食に何か安いものはないかと物色してみたが、どれも最低ラインで7、800ペセタしている。仕方なくマクドナルドへ。ここのところよくファーストフードを食べている。
 ともあれエアコンはきいているし、腹は膨れるし、手紙も書けるし、それにケチャップだってもらえる。なにもここでフライドポテトに使わなくとも、あとでパンにぬって食べたってよいのだ。
 昨日の高速バスでうまく眠れなかったから、猛烈に睡魔がおそってくる。しかし昼寝をしようと宿のベッドに横になっても、暑さで半端にしか眠れない。シャワーを浴びて身体をさっぱりさせた。
 夕立がやってきた。結構派手に稲妻が走り雷鳴がとどろく。その激しさに対して、雨の方は今ひとつキレが悪いのだが、それでも道路の隅の方は小川になっていた。流れる落ち葉によってその速さを見て取る。
 雨が止み雷もおさまったら、ずいぶんと過ごしやすい空気になっていた。夕食の買い出しにデパートへでかける。店の前には物乞いがいる。両の腕がえぐられたように失われた男性。膝をつき、頭を地面にすりつけんばかりにして手を差し出す男。胸が痛む。だから僕はどうしたらよいのだろう。具体的に目の前に見えるか見えないかだけで、世界にはこういうのがあふれているのだ。
 あれ、食料品売場が地階にない。意外なことにここでは最上階にあった。
 パンを買い、総菜売場でイカリングフライを買う。そういやギリシアでのタヴェルナでは川原さんとビールのつまみに何度かこれを食べたっけ。イカのぷつっとした歯ごたえを当然のこととして口にしたのだが、得られた食感は「ふにゃ」であった。呆気にとられたが、それはイカフライではなくオニオンリングであった。イカフライを食べられることを喜んでいただけに、かえって惨めな気がする。そう言えばずらりとならんだおかずの中に、イカフライが二種類あるんだと認識したことを思い出した。何の気なしに安い方を選んだのだけど、まさかタマネギだったとは。
 食事をとったのは夕方と言ってもよいくらいの時間だったので、涼しい空気の中、夜の散歩へ出かけた。今までに見たことがないようなうすい青緑の空が次第に闇へと移り変わってゆく。くっきりとした光を放つ街灯の向こうには月が浮かんでいる。通りを行く人は、犬を連れている人が多い。大きい犬か、あるいは小さいちょこまかと歩く犬。
 石段に並んで腰掛ける男女の間に、一匹の白い犬がすっぽりと座った。よい光景だ。
 車椅子、松葉杖姿の人もよく見かけるが、これは開かれた社会ということなのだろうか。それとも怪我や事故や病気が多いということなのだろうか。
 Palacio Real o de Orienteのライトアップを見に来たつもりだったのだが、別の方向からも眺めてみようと建物をぐるっと回ってみたら、人の列ができていた。どうやら野外劇場で公演があるらしい。かなりの数の人が並んでいる。聞こえてくる音楽がとても楽しげだし、「野外劇場」という響きにもひかれたから、多少逡巡したものの、切符を買って列に加わった。おめかししてお出かけという風ではなく、近所の人がわいわいと集っているという気さくな感じがする。
 舞台すぐはテーブルが並んでいて、食事をしながら観劇できるようになっている。僕が座ったのは後ろ半分の普通の座席。先ほどの雨で座席が濡れていたが、知らずに僕は座ってひやりとした。それを見ていた近くのおばさんがハンカチを貸してくれようとした。「ありがとう、でも僕もタオルを持っているから」と笑顔で伝える。
 観客の中にはビールを飲んでいる人もいてかなりうらやましい。劇が始まる前から役者が席の方へ出てきて「コンスタンティーン!」と声をあげたり、「ほら、このタイミングでウェーブをしてくれよ!」などと客をどんどんと盛り上げていく。
 開会のアナウンスでは「フェリペ4世」とか「フェスタ」という単語が耳に入ってくる。雰囲気はものすごくよい。祝祭的な夏の夜である。だが、いかんせん言葉が分からないというのは大きなハンディキャップである。どうにも筋がつかめない。悲劇ではないらしいというくらいしかつかめない。開幕が10時半で1時間たったところで休憩があった。その間に僕はそっと席を立って宿へと戻ることにした。


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