雨の記憶
サムイには雨の記憶がつきまとう。南国的な激しいスコールではなく、椰子の葉の緑をしっとりと濃く映し出し、海岸を灰色に染める静かな雨。バンコクへ向けての出発までにチャウエンビーチを散歩して、前回宿泊した辺りまで歩いてみようと思ったものの、すぐそこの雲から降り出した雨のために3分も行かない内に引き返した。これでよかったのかもしれない。
雨のためか空港も人の数の割には静かで落ち着いている。
船酔いに見舞われた海も、上空から見ると部分的に波頭が白く模様のように見えるだけである。しんみりとした気分の中、飛行機は北上する。
バンコク。急に世界の軸がぐらりと角度を反転させたみたいだ。海に浮かぶ小さな島とは比べものにならない大都会。だがこの街の騒々しさは僕にはやはり心地よい。
M氏に連絡をとったのだが、「仕事が忙しくて」と今回は会えそうになかった。さて、そうすると夜中のミュンヘン行きの便までかなりの時間を持て余すことになる。
想像力が足りないと言われればそれまでだが、バックパックを空港内で預けて、やはりカオサンへ向かうことにした。
同じエアポートバスに乗ろうとしていたクルター・パジャマ姿の日本人旅行者がちょっとしたトラブルを引き起こした。「100ドルしかないんだけど」と乗務員に言い、しばらくやりとりがあった後「だったらターミナル2で5分だけバスを停めておくから両替して来るように」となった。ところが、戻ってきた彼が渡したのは20バーツ札一枚。「これでは乗れない。このバスは100バーツが料金なのだから」と車掌は説明する。彼は「Oh!」というような身振りをしてみたり、チケットを入念に点検してみたりする。その間も僕を含めた他の乗客は待たされたままだ。
貧乏旅行も一歩間違うと、この状況に陥ってしまう。しかし彼のやりとりは微笑ましいを少し通り越して、僕には不快だった。もう少し長引くようなら声をかけてみようかと思っていると、結局彼は自分の荷物を引き取ってバスから降りた。やれやれ、である。
カオサンもまた一年半ぶりだ。前回パタヤへ行ったときはここに立ち寄らなかった。コンビニが一軒増えていた。とりあずTシャツを何枚か買っておく。みやげと言うよりも自分が日本で普段着とするためだ。
時間つぶしのもっともよい方法はやはりビールを飲むこと。そして葉書を書くこと。エアコンの効いたカフェで春巻きをつまみながらシンハのジョッキを傾ける。一枚の葉書の宛先はナイロビの日本大使館。世界一周の旅の途上にある友人へ。
それでもまだまだ時間はあるので、以前泊まったことのあるCHII(2)という宿屋の一階のパソコンを使ってメールをいくつか書いた。最初にカオサンに来た頃は、確か一軒しかインターネットができる所はなかったが、今ではもうあちらこちらに目につく。その中でわざわざカオサンから少々外れてCHII(2)まで来たのは、まあ個人的なノスタルジーの追求というところだ。こちらは宿のお兄さんを覚えていたが、向こうにはそんな気配は微塵も感じられなかった。そりゃあそうだろう。わずかな期間泊まっただけの、多くの宿泊客の内のただ一人なのだから。
タクシーでワールドトレードセンターへ出て、友人へのみやげをいくつか求める。そこからトゥクトゥクに乗ってパンティップへ。ここはコンピュータ関係の巨大なショッピングセンターである。この頃にはようやくと日が暮れていた。
まだまだ出発までは何時間もあるが、後は空港で暇をつぶすことにする。スカイトレインに乗ろうとトゥクトゥクを拾って近くのの駅まで出ることにした。しかしどうにも意思の疎通が計れない。最北の駅まで出てそこからはまたタクシーに乗るつもりにしていたのだが、「スカイトレイン」という愛称が運転手に通じず、唯一共有できた単語が「モーチット」だった。なんとなく聞き覚えがある駅名だったので「それ、それ」と応じた。
彼も納得してくれた風だったので安心したが、どうも手近にある駅を通過して自動車の合間をぬってトゥクトゥクが進む。どうやら僕の記憶が曖昧でモーチットとが路線の最北の駅で、彼はそこまでこの言葉のよく分からない客を運ぶつもりらしかった。「近くの駅に行きたい」という僕の希望は、適当な返事のために「モーチットの駅まで行きたい」と彼に理解されてしまったようだ。次の駅が見えたところでぽんぽんと背中を叩き「ここでいい」と声をかける。彼は不審そうな顔だったが、とりあえずこの距離で妥当と思われるだけの額のコインを渡して降りた。
僕のタイ語の能力は「こんにちは」「あなたのお名前はなんですか」というあたりからあまり成長していないようだ。こうやって実際の場で役に立たないと、やはり今までのやり方を少々修正する必要があるのだろうと思う。しばらくは英語にかける比重を減らしてタイ語に集中しようと決めた。
空港で荷物を引き取って、顔を洗い歯を磨きシャツを着替えて長時間の飛行に備える。日付が変わる少々手前、連絡バスを降りてタラップに向かうまでの間も、細かな雨が僕の肌に触れていた。
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