僕が眠る間に

 ドイツにはサマータイムが導入されているので、タイとの時差は5時間。フランクフルトに到着したのがちょうど日の出くらいだった。主観時刻ではもうお昼前である。
 空港ビルに入ってまずその機能美に目を引かれた。ありふれた物のはずなのに、ここで目にするイスやゴミ箱や電話機なんかはどこかしらキラリとした美しさを感じさせる。特にゴミ箱は環境先進国であるドイツらしく、分別収集のために投入口が4つに別れていて、しかもその金属素材が描き出す曲線が思わず足を止めて写真を撮らずにはおれないほどだった。

空港内のゴミ箱
 しかしマイン空港はあまりに広大で分かりにくい。ミュンヘン行きの便に乗り換えるために、案内表示に従って歩いたはずなのだが非常階段のような人気のない場所を通ったり、間違ったゲートへ行って係官に「ここは違う」と注意されたり。宇宙船の館内のように銀色の光がまばゆい動く歩道を延々と歩く。
 僕が乗る便はタイ航空のコードで案内が出ているが、実際にはルフトハンザである。ドンムアン空港でチェックインした際に、フランクフルト・ミュンヘンの搭乗券も発券されていたから特に手続きも必要なくスムーズに機内に入った。スターアライアンスの便利さを実感する。
 エアバスA300ってこんなに広々としていたっけ?と不思議に思うほどにゆったりとした座席間隔だった。もしかしたらヨーロッパ人のサイズに合わせているのかもしれない。そう言えば僕がこれまで乗ったことがある飛行機というのはそのほとんどがアジア系の航空会社のものだ。
 ルフトハンザのマークに使われているような、少々抑制された黄色というのがよく目に入る。鬱蒼とした森の奥に置かれたレモンのような色。僕の妹がこれを表す「ルフトハンザイエロー」という表現を考案していた(ウィーンのシェーンブルン宮殿の外壁の色を表す「マリアテレジアイエロー」からの連想とのこと)。僕もそれに倣おうと思う。
 ほんの小さな存在だけどリクライニングのボタンがこのルフトハンザイエローで「あ、こんなところにも」と微笑ましい気分になる。機内アナウンスの男声は、嫌みのない演劇のような抑揚のある言い方で美しい。息が漏れる音というのもちょっとロマンティックで馬なんかに聞かせるにはもったない言葉である。そして、何より、女性の搭乗員が美しい。体躯は大きいが、楚々としたという形容が似つかわしい。頭部を彩る金髪もどこかしら控えめな雰囲気を感じ取ることができる。激しいエネルギーの発散ではなく、分をわきまえた静かな魅力。
 朝日に輝く森を見下ろしながら飛行機は飛ぶ。ずうっと森が続き、合間に畑が点在しさらにその中に家がちらほらと固まって建っている。
 トマトジュースを一杯飲んであわただしく片づけがなされると、もうミュンヘンに到着である。空港内にいても少々肌寒さを感じた。緯度が高いとは言え、北半球は夏の盛りなのだからと半袖のシャツしか持ってきていなかった。まあ、どうしようもないならどこかで服を調達してもよい。
 空港から宿のある場所まではSバーンという電車で出ることにした。券売機の前で「歩き方」を開いて戸惑っていたら案内の人が丁寧な英語で買い方を教えてくれた。彼女は一日乗車券もあると言ってくれたので、少し考えてそちらを買った。今日は別のルートで来た友人達との待ち合わせの日になっていた。とりあえず宿で落ち合って、おそらく夕食を食べにでもそこから中心部へ出るだろうから一日券の方が得だろうと判断したのだ。
 乗車の前、ホームに続くエレベータの所で細長い切符に日付と乗車時刻を刻印する機械を通す。これが改札である。
 先ほど空港で感じた「美しさ」というのは一歩車内に踏み入れると雲散してしまった。座席や窓ガラスには堂々と落書きがなされている。
 鼻にピアスをしたファッショナブルな女性が途中で乗ってきた。えんじ色の彼女のシャツには大きな字で「年末恒例」とプリントされている。
 初めての街だから距離感覚もよくわからない。窓からの風景は単調な畑が続く。乗り過ごしては大変だとは思いつつも、ついうつらうつらとしてしまう。ふっと目が覚めたら電車は地下に潜っていた。それでも目的地まではもう少しあった。
 再び地上に出てパージングで乗り換えてガウティングという駅で降りる。静かすぎるくらいに何もない田舎町である。「ドイツ」「宿」というようなキーワードで見つけたのが今回の宿泊先であり、待ち合わせ場所。ホームページ上で案内されていたように駅前でタクシーに乗ることにした。ベンツである。住所をプリントアウトした紙を運転手に見せると、「うむ、サマーの所だな」とすぐに分かってくれた。
 こぢんまりした部屋だが、壁には絵もかかっているし布団はふわふわだしファックスも冷蔵庫もテレビもシャワーもついている。ただし「水道の工事中だから夕方までお湯は使えないんです」と説明された。とりあえず冷水でシャワーを浴びて髪と服を洗った。もちろん眠気は継続しているものの、さっぱりした身体でとりあえず下見がてら町をぶらぶらと歩くことにした。
 タクシーでここまでは5分少々のものだったし、車はゆっくりと走っていたから駅までは十分に歩ける距離だった。標識で確認すると、わずかに2キロ。
軒先の花
 数軒隣、ごく普通の庭を持った家に「ビアガーテン」という看板が出ていたが、残念ながらこの時期は閉まっているとの貼り紙が玄関にあった。家の庭やベランダに色とりどりの花が咲いていたり、林檎の木が植えられたりしている。空気はからっとしていて、散歩にはぴったりの気候だ。自動車よりも自転車に乗った人を多く見かけた。とは言え、通り過ぎる人の数そのものがすごく少ないのだが。
 トウモロコシの畑や、何かを刈り取った後の土地がしばらく広がりその向こうにはずっと森になっている。つい先ほど上空から見下ろしていたような、そんな典型的な風景だ。耳に優しく届くのは鳥の鳴き声、鼻に入り込むのは馬糞の香り。
 いくら田舎とは言え、さすがに駅前にはいくつかの店が並んでいる。「レストラン」という看板もいくつか見かけるものの、どこにも人が入っている気配がないので今一つ入ってみようかという気分にならない。何よりも黒板に書き出されているメニューがさっぱり読めないのだ。まあ、これは日本に来た外国人が「きつねうどん」も理解できないレベルだろう。勉強していない僕の方に問題がある。
ドイツ第一食
 しかしこのまま宿に戻るのも悔しいし、空腹でもあるのでどこかに入る必要はあった。いっそスーパーで何か買おうかと思ったが、ちょうどその隣にデリカテッセンがあった。ここなら食べたい物を指させばよいだけだ。白ソーセージ、豆やニンジンなどのゆで野菜とジャガイモ。これらを頼んで、前の人がやっていたのと同じようにとろりとしたソースを全体にかけてもらう。お店の人がレジで計算している間に、冷蔵ケースからビールを一本。これで8.9マルク。だいたい450円。ううむ、安い。
 ヨーロッパ人サイズで僕には少々高すぎるテーブルで食事をとる。周りにはじいさんや、肉体労働系のおっちゃん。しかし彼らの食べる量は多い。それも一品だけをどかっとというパターンだ。平皿にピラフだけとか、ジャガイモをどさっというふうに。店内で食べるだけでなく持ち帰りの人も多い。結構はやっているお店のようだ。
 のどを潤し、お腹も落ち着いた。さて帰って一眠りして彼らの到着を待つか。と、その前につまみを買っておくことにした。ゼラチンで鶏肉とキャベツを固めたものと唐辛子が入ったハムをそれぞれ50グラムずつ。赤いエプロンのおばちゃんに「むにゃむにゃむにゃ」と僕の理解を越えた言葉で何事かを言われた。そうしたら「Have a nice day!」と言い換えてくれた。
 うん、よい町じゃないか。食事は安くておいしいし、人は親切。つい先ほどまではあまりに田舎すぎることに多少危機感めいたものを抱いてたいのだが、酒の酔いも手伝ってあっという間にこにこと頬がゆるむ。
 とりあえず一本だけビールを飲んで一眠りする。ルフトハンザの直行便で来る連中も夕方までにはここに到着するだろうと踏んで、それまでお昼寝。「1号室にいるから、到着して落ち着いたら呼んでくれ」と書いたメモを宿の人に渡しておく。
 何度かぼんやりと目が覚めたが、彼らはまだのようだった。何度目かに目覚めたときにはもう日が暮れていた。結局ドアがノックされたのは10時前のことだった。
 直行で今日着いた藤原と中川の二人はなんとフランクフルトからライン川下りを楽しんできたらしい。ワインがうまかったそうだ。何てことだ! それならそうとフランクフルト待ち合わせにしておけばよかった。
 後悔の念がわき起こったが、結局のところそれは事前の打ち合わせ不足に起因する。出発前に一度京都で集まったものの、酔いが回るまでに決まったことは「8月23日に宿で待ち合わせ」というだけだった。もう少しちゃんとそれぞれのスケジュールを確かめておけばよかった。一人旅とはこういうところが違うのだ。
 さらにタイ航空を利用してバンコク経由で数日前にミュンヘンに入っていた新津も既にかなりの程度ビールを楽しんでいるらしい。
 段取りをちゃんとしておけば飲めたはずのアルコールを悔やみつつ、ともあれ全員そろった所で冷蔵庫のビールを取り出してプロージット。


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