続・宴は途切れず
静かなミュンヘン市街を一人歩く。頭の片隅にはもう少し観光地を見物する予定がないわけではなかった。郊外のニンフェンブルク城、ダッハウ収容所、あるいはフライジングにある世界最古のビール醸造所。だが、宿を出て、Sバーンで中心部へ向かう間に徐々に意欲が失われていった。
二日酔いともちょっと違う感じで、頭痛や吐き気がするわけではないのだが、さすがに昨日のビールが体調に影響を及ぼしていてとにかく全身の倦怠感がひどい。そしてそこから導かれる精神面での意欲の減衰。
結局ミュンヘンの中心部をそぞろ歩くことで夕方の待ち合わせまでの一人の時間を過ごすことにした。
それなりの規模を持った都市のはずなのに、一定の静けさが漂っている。活気がないわけではないのだが、質がアジアのそれとは異なっている。穏やかで静かでそして整っている。
ヨーロッパらしく炭酸入りのミネラルウォーターを買ってみるも、これは僕の口には合わなかった。清涼感ではなく逆に身体に閉塞感を流し込むような気がする。ボール紙をもそもそと口に突っ込んだような。
ふと指先が細かく震えている自分に気付く。やはりアルコールが抜けきっていないのか。トーンダウンした体調と精神面の状況を踏まえると、明日の帰路が気が滅入ってくる。行きはタイで数日過ごしたから何の問題もなかったが、帰りは乗り換えを二回経て日本へ戻ることになる。次からはヨーロッパは直航便にしよう。
それでも幸いに食欲はしっかりとあるので中央駅近辺をうろうろと物色する。タイ料理屋のメニューにかなり心ひかれたのがだ、やはり躊躇する。ミュンヘンでわざわざ食べなくても……。結局歩き続けてヴィクトアーリエンマルクトの裏手あたりで買った酢漬けのニシンとタマネギのサンドイッチにした。肉やチーズが多い中でこうやって魚を体内に取り込むと、忘れられていた感覚器が喜びで目覚めるようだ。
昨日一緒に飲んだ広末さんに今朝方電話をかけて教えてもらったカフェで午後のひとときを過ごす。彼女のお気に入りのボドスという店で、もちろん屋外の席をとる。ショーケースに並ぶケーキをどれにしようかと楽しく悩んだ後、クッキー地にイチゴが山盛りになっているものを選ぶ。飲み物はコーヒー。
何をするわけでもない。道行く人を眺め、注文をとり皿を運ぶウェイトレスを目で追い、感じたことをノートに走り書き。あるいは絵葉書をしたためる。宛先はカイロの日本大使館。世界一周中の友人へ。写真には、なみなみとビールをたたえたバスタブにつかり、高らかにジョッキを掲げるおじさん。まさに今回の旅行の象徴だと言えよう。
しかしまともな字が書けない。敢えて時間をかけて落ち着いてボールペンを動かしているつもりなのだけど、思い通りに書けない。いやそれ以前に文章もどう考えてもおかしな日本語になっている。もどかしさを感じ違和感が解消しないままに最後まで何かしらの文字を埋めた。
カップが空になってしばらくしてウェイトレスが「もう少しいかが?」と声をかけてきた。僕はエスプレッソを頼んだ。きりっとした苦みのそれをすすっていると、だんだんと身体が正常になってきたような気がする。でもだからと言って何をしようという算段があるわけでもない。ゆっくりと流れる時間に身を委ね、旅空の下にある自分をかみしめる。
「旅」を認識させるのは、もちろん僕が非日常にいるという動かしようのない事実である。けれどそうした定義付けよりも第一に目に映り耳に入る事物によって旅を知る。
通りを行く人は自転車に乗っている人がとても多い。それもハンドルが横一文字のものだから、誰もがスポーティーに見える。あるいは自動車の色も違う気がする。しっとりとつややかで、赤でも青でも落ち着いている。
そして決定的なのは、空気が震えないこと。実際に街の音というものが少ないように思える。ある一定の静寂が保たれている。もしかしたら、これが心と指先に染み入る寂しさの原因なのかもしれない。穏やかに心地よいが、物足りなさとも表現することができるのかもしれない。
夕方。少しがんばって歩いて、英国庭園を目指す。先日訪れた新津が花が美しかったと語っていたからだ。だが僕がそこで見つけた光景は、花ではなく数々の裸体。英国庭園そのものが十分に広いから、僕が歩いた部分はごく端の方だけだろうと思うのだが、小川の流れる広場に見渡す限り裸。老若男女。水着の人もいるし、下半身だけ覆っている人もいるがもちろん完璧に太陽に身をさらしている人もいっぱいいる。さすがに少しびっくりしたが、小道にそってぐるりと歩いてみた。完璧に興味本位からである。
さて、たっぷり歩いてようやく身体も本調子を取り戻してきた。また「飲もう」という気力がわいてきた。待ち合わせ場所へ向かう。今朝電話をかけたときに誘ってみたら彼女たち二人もまたやって来るということだった。
再び酒宴が始まった。僕には今日が実質最終日だから、悔いの残らないように飲み食いをすることに。が、機嫌よくソーセージを頬張りビールを飲んでいると、つっこみが入った。「そのビールって、アルコールフライって書いてあるけど……」英語で訳すと「アルコールフリー」。そう、さっぱり気付かなかったのだけれど手当たり次第に飲んでいた一本はなんとビールのふりをした飲み物でしかなかったのだ。気付かないくらいに酔っていたというのもあるのだが、それはそれとしてショックであった。急いで飲み干すと次はちゃんとアルコール入りのビールを調達。
「せっかくミュンヘンに来てるのだからやはりちらりと見るくらいはしておいた方がいいかもね」という広末さんの提案に従い、日が陰って来たころにホーフブロイハウスへ。
タバコの煙が充満しているから、個人的にはここで飲まなくて良かったとは思うが、やはりそれなりに楽しめるようにできていて、楽団が入り酔客は肩を組んで踊っている。どこかでグラスの割れる音がして、誰かの吐瀉物が床にまき散らされていた。こういうシーンというのは国境なんか関係ないのである。
ちなみに、僕の帰国後残ったメンバーはきっちりここで飲んできっちり踊ってきたそうである。
さて、ドイツはビールだけではない。ワインだって名産なのだ。と、いうわけでいくつもの種類が楽しめるワインハウスへと彼女たちが連れて行ってくれた。かなり夜は更けていてスベンニャなんかはどうも恋人との予定をキャンセルしてまでこの日本人酔っぱらいにつきあってくれていた。
天井の高い石造りの建物はちょっとだけ高級感が漂っているけど値段は手頃で、味の好みによって分類されたメニューを読んだ彼女達の解説に従って僕はさっぱりとした白ワインを飲んだ。ここに入る前に道ばたで演奏されていたカルテットのように心地よくしっとりとおいしい。
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