Cクラス

 採算に合わないからと、全日空の関西発ロンドン行きの便が廃止されたのは確かついこの間だ。仕方なく今回は、外国に出るというのに出発が伊丹空港になる。そこから成田を経由してヒースローへ飛ぶ。
 アップグレードしたのは成田・ロンドン間だから、伊丹・成田はエコノミーだろうと思っていた。しかしチェックインカウンターでビジネスラウンジのチケットを二枚もらう。一枚はここ伊丹の、そしてもう一枚は成田のものだ。
 6時前に起き出して、口にしたのはヴォルヴィックだけ。ラウンジに出れば軽食くらいあるだろうと思い、スターバックスでのサンドウィッチを諦めてラウンジへ向かうものの、飲み物しか用意されていない。さすがにこの時間でビールを飲む気はしないので、仕方なく空きっ腹にコーヒーを一杯。
 カバンからiBookを取り出して、ケーブルをモジュラージャックにつなぎメールをいくつか送る。わざわざここでそうする必要もないのだが、やってみたかったのだ。
 搭乗するものの、あまりに席が広すぎて落ち着かない。始めて使うレッグレストをいじくっていたら、戻し方が分からなくなって、緊張して首筋に嫌な汗をかいてしまった。結局、離陸前に乗務員がやって来てボタンを押しながら戻せばいいと教えられた。
 1時間もないフライトだから飲み物一杯で終わり。コンソメスープを飲んでおく。つい一週間ほど前にも全日空に乗っていたから、今さら機内誌を読むところもないのだが、とりあえずぱらぱらとめくる。
 成田は雨であった。

雨の成田
 チケットは伊丹のチェックインの時点でロンドンまで発券されていたので、混み合うカウンターを横目に出国審査。それにしても、成田と比べるとやはり関空は狭いのだということを知る。と、言うよりも成田が広すぎるのだ。東京に行く度に思う、「人が多すぎる!」という感想をここでも得るものの、それはただ単に僕がそういう情景に慣れていないというだけなのだろう。当然ながら、行き交う飛行機の数も多く、それが案内ボードの大きさに如実に表れていて圧倒される。
 出国のスタンプをもらうと、やはり行き先はラウンジである。さすがに国際線用である、食べるものを見つけた。でもコンビニでも置いているようなチーズデニッシュ。仕方なくそれと……飲み物はキリンの一番搾りに手が伸びた。空きっ腹だし、まだ10時前だというのに。休暇なのだからよいことにする。
 さすがによく回る。これまでであれば、調子に乗ってもう一杯、あるいはウィスキーあたりに手が伸びてもおかしくないところなのだが、意志の力で自制する。
 今回の旅の主目的はもちろんおいしい酒を飲むことなのだが、もう一つ同じくらいの目標として自身に設定したのが「飲み過ぎない」という点だった。翌日のつらさだとか、後から振り返ってみっともないだとか色々理由はあるが、自制をしてみたい、あるいはするべきなんだろうと漠然と感じ始めていた。これは僕が年をくったからという消極的かつ単純な理由によるのかもしれない。
 搭乗口ではエコノミーの列に並ぶ大勢の人たちを後目に、ビジネス用の入り口からスムーズに搭乗。窓の向こうは灰色で、ガラスの上を水滴が滑っていく。そして、ウェルカムシャンパンサービス。先ほどのビールを一杯で止めておいて本当によかった。炭酸の刺激と爽やかな香りが朝の身体に心地よい。
 離陸後の最初の一杯はとりあえずドイツの白ワインを一杯飲んでオードブルをつまむ。生ハムメロンなんて、いかにもではあるが、頬が緩む。アメリカの事件のあおりを受けて、ナイフとフォークはプラスティック。
ビジネスクラスの機内食
 だが、期待が大きすぎたというのもあるのかもしれないが、エコノミーと比べて食事が格段においしいかと言うとそんなこともない。おかずの種類も多いし、すっぽんのお吸い物や、生の鮪なんかもあるけれど、これなら僕が家で普段食べているものの方がよっぽどおいしい。ファミレスのちょっと上、というぐらいのものじゃないかと思う。所詮は機内食である。
 航路の図を見ていると、これまで乗ってきたアジア方面の路線とはまったくエリアが違っていておもしろい。地名も全然分からない。「ニコライエフスクナアムーレから888km」と表示されても広大なロシアの大地でどこにあるのか見当もつかない。地上を見下ろすと、荒涼とした大地が続き、凹凸の北の斜面にはうっすらと雪が残っている。
 時差が8時間もある土地をひとっ飛びするのは初めてだから、どうやって身体を馴らそうかと思っていたが、とりあえず食後の睡眠から覚めた後は、現地時刻で動くことにした。つまりはもうこれ以上眠らないのだ。
窓外
 シートビデオでは見逃していたタイの「ナンナーク」を見て、谷口キヨコがラジオで評論していた記憶のある、パナマの仕立て屋の嘘に端を発する運河をめぐるドタバタのコメディを見る。
 合間にちょこちょこっとお酒を飲んだり、iBookをぱたぱたと打ったり、エイミ・タンの「私は生まれる 見知らぬ大地で」を一章ほど読んだりで、思いの外あっけなく時間が過ぎていった。
 雲をくぐりイギリスの街並みが視界に入る。それを見てどうこう思う前に、まず身体が反応した。頭の後ろの皮膚がぎゅっと引っ張られたように鳥肌が立ち、気色の悪い熱を帯びた。そう、僕が見たその風景は、少なくとも僕にとっては気持ちの悪い存在だった。昔から「数多く並んだ微小なもの」というのが生理的に駄目なのだ。例えば蛙の卵だとか、トンボの複眼の拡大写真だとか……。豊富な緑の合間に茶色い屋根の家がむにょむにょと並んでいるそのイギリスの、おそらくは典型的な郊外の風景は薄気味悪かった。まあ、上からさえ見なければいいので、問題はないのだけど。
 入国審査にやけに時間がかかった。並ぶ人は多いし、それを受け入れるためのカウンターもずらりと並んではいるのだが、それを捌く肝腎の人手が少ない。さらに、一人当たりにかけられる時間がこれまで遭遇したことがないほどに長い。これがテロの影響なのか、それともヒースローはいつもこうなのかは、知る由もない。
 僕の場合は幸いなことに「目的は?」「期間は?」「帰国便のチケットを見せてください」というだけでスムーズに終わった。目的を問われたときに、一瞬頭をよぎったのが「スコッチを味わうために」という答えだったが、無為なことはやめた。
 グァム入国に際して恰幅のいい女性に「ご機嫌いかが?」と訊かれて深夜の到着だったので「眠たいんだよ」と答えたら「私もよ」と笑って返されたのとは雰囲気が違う。なんだか全体的に薄暗い。
 地下鉄でヴィクトリア駅を目指す。車体はすごく小さい。座席で向かい合った人たちの間を歩くにはかなり注意をしないとどちらかを踏んづけてしまいそうなくらい。実際、僕の斜め前に座っていた女性は足を踏まれて痛そうな顔をしていた。
 ヴィクトリア駅の改札を出ると、「チケットない?」ということを訊いてくる男がいた。おそらく、旅行者にねらいをつけて、一日乗車券をもらうのだろう。もらった後はどうするのだろう。もしかしたら別の人に安く売っているのかもしれない。確かに僕も空港から市内へ出て、もう一度バスか地下鉄に乗れば元がとれるという一日フリーのチケットを買っていた。だけど、まだ元をとっていないからあげない。
 ネットで探して予約をしていた宿は割合簡単に見つけることができた。僕が泊まるアリソンハウスという宿の並びはずらっとどこも同じような形態で「空室有り」などの看板を掲げていた。
 部屋に入ると、何はともあれiBookの充電。残念ながらモジュラージャックではなく、線が埋め込まれているのでここから直接インターネットに接続することはできない。
 今回は、240ボルトまで対応のiBook用のAC電源とプラグ形状変換コネクタ、それに電話のジャックの電圧チェッカーと各国対応の変換プラグを持ってきていた。僕が使っているプロバイダの一つのinfosphereはロンドンにもローミング用のアクセスポイントがあるので、それ用の設定も準備していた。
 さあ、ロンドン。何をしようかであるが、地図によるとここから近い所にバッキンガム宮殿があるのでとりあえずそこを目指す。そうして歩いている間にロンドンの概要とか距離感などもつかめるだとうと思った。が、間違えた。なんで全ての通りに名前が付いていて、しかもバッキンガムパレスロードというそのまんまの通りを歩いたのにテムズ川に出てしまったのか。仕方なく、川に沿って北向きに歩く。
 この原因は、バッキンガム宮殿を背に歩いていたという根本的な間違いだったことに気付いたのは実に3日後のことである。
 長袖のシャツにコーデュロイのシャツを羽織っているのだが、やはり川からの風が冷たい。特に首の後ろがよけいに冷たさを感じる。でも川縁でバグパイプを練習する人や、濁った川に浮かぶカモメなどを見てなんとなく気分は悪くない。
 中心地からかなり外れてしまっていたために、数キロ歩く羽目になってしまった。ようやくビッグベンやウェストミンスター寺院のエリアに出るものの、日が暮れかけてきた。ここで地下鉄に乗り、その温められた車内の空気にほっと一息。全ゾーン用の一日乗車券の元もとったことになる。
ビッグベン
ウェストミンスター寺院
 宿の近くのフィッシュアンドチップスの店へ出る。列の前の人を見ていても、盛られるジャガイモの量が半端ではない。しかしやはりとりあえずは食べてみたいものの一つである。カウンター越しに「フィッシュアンドチップスを一つ」と言うと、「オープンか、クローズか」と訊かれた。どういう発想なのか理解できない。
 ここで素直に「それ、どういうこと?」と聞き返せばよいのだろうけど、弱いもので「オープン」と口をついて出る。プラスティックの平皿に盛られて渡された。なるほどこれがオープンの状態で、紙にくるんでわたされるのがクローズなのかと、ようように納得。
 僕の前に買った人が振りかけた塩の量は中途半端ではなかった。いくらなんでもと思いながらも、普段使うよりはよっぽど多めに僕も振りかけ、ヴィネガーを振ってみた。
 宿に帰りながら熱々をつまむ。確かにジャガイモの味がしておいしいけれど、彼らには下味という概念がないのだろうか? ジャガイモも、棒状の巨大な魚のフライも見た目ではおいしそうだけれど、口にするとあれっ、という物足りなさがある。塩をふりかけた部分はおいしいけれど、そうじゃないところは本当に材料そのものの味と油の匂いしかしない。
 最後に食べ物を口にしたのは着陸前の軽い食事だったからお腹は減っていたのだが、それでも僕はこの芋を食べきることができなかった。
 残りを罪悪感を得ながらゴミ箱に入れ、もう一度外に出た。今度は酒を飲むのだ。幸いに先ほどの店の斜向かいにパブがあった。カウンターでギネスを1パイント。
 ここは長距離バスのターミナル(ヴィクトリアコーチステーション)に面しているので、大きな荷物を持った旅行者がけっこういた。バスの出発までの時間つぶしかもしれない。駅とかバスターミナルとかの周りは、なかなか悪くない食べ物屋があるものなのだ、経験的に。その意味でも宿の選択は悪くなかった気がする。
 二回に分けてゆっくりと注がれたギネスはきりっと冷たくて、口にすると液体のくせにどっしりとした存在感があった。ロンドンでギネス、目標を一つ達成。
 すぐその後に二つ目の目標もクリアする。それは、飲み過ぎないこと。もう一杯どうしようか、と迷ったが、迷ったということはそこまで欲していないのだと判断を下す。それに、睡眠不足のはずなのだから今日はちゃんと眠ろうとまるで他人事のように頭の片隅が考えたからだ。


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