6年ぶり
ノイバイ空港は、まるで畑の中に滑走路が走っているような空港だった。僕が乗ってきたタイ航空のエアバスA300以外は、ヴェトナム航空の機体しかない。その中には、ボディを走る水色のラインの塗装が薄くなっているものすらあった。
空港の建物自体は、この状況と不釣り合いなほどにキレイなものだ。ごく最近建てられたもののようだ。だが、いくらハードがよくても、サービスというソフトの面からは、やはりここはヴェトナムだった。いくらなんでも一国の首都の国際空港なのだから、国際キャッシュカードの使えるATMくらいあるだろうと思っていたがアウト。両替に向かった銀行の窓口にも、円のレートは表示されていなかった。多少のアメリカドルを持って来て正解。1ドルで15320ドンというレートだった。下二桁を切ると、円に近い。
観光案内カウンターで、ハノイ市街の地図をもらう。「ハロン湾へ出たいんだけど、鉄道の時刻表って置いてますか?」と尋ねると、地図上の鉄道駅を示して「ここで訊いてみてください」との返事。
建物を出ると、タクシーの呼び込みがいた。4ドルで出ると言う。でも、ヴェトナム航空が市内のオフィスまでミニバスを出していて、そちらは2ドル。もちろん後者を選ぶ。
バスとは言えライトバンである。小一時間経って、客席が全部埋まるとようやく出発した。
街に入ると、クラクションの音がそこかしこで鳴っている。流れを構成しているのは、ほとんどがバイクである。それぞれがほとんどブザーのような音のクラクションを立てている。自転車に乗ったおばさんが、僕らの乗ったバスをよけた瞬間、背後にガシャンという音がした。振り返るとそこには、先ほどのおばさんとバイクとがぶつかり、共に地面に倒れていた。
空港を出るときに乗り込んできた、多少英語の話せるヴェトナム人の兄ちゃんが宿を紹介すると言う。別に僕はどこでもいいので、とりあえずそこを見せてもらう。トイレとシャワーは別、扇風機はついている。申し訳程度にタオルも備わっている。
久々のバックパックを背負った旅だから、ゲストハウスのドミトリーでもよいと思っていたが、この部屋で5ドルと言われて、他を当たるのも面倒だからすぐに決めた。このレヴェルの宿なら、大きな当たりもなければ外れもない。こんなもんだな、という判断があるだけだ。
先ほどの兄ちゃんから「ほら、別の日本人もいるよ」と教えられる。ハノイに住んでいるのだと。ハロン湾の話しでも聞かせてもらおうと、声をかける。なんでも彼女は日本での仕事を辞めてこちらに来て、しかも間もなく結婚する予定なのだとか。色々な生き方があるものだ。
彼女とホテルの人とが「昼食に行くけど」と誘ってもらい、ブンチャというものを腹に収める。のびた素麺を、つくねの入ったスープにつけて食べる食事だった。付け合わせには各種生の野菜。それぞれが独特の匂いがしてうまい。
6年前のホーチミンからダナンへ北上し、ラオスへ抜けた時には、ヴェトナムの食事はさして印象にも残らなかったが、今回はのっけからずいぶんとおいしいものだと思った。「北部と南部では、雰囲気が違う」というのはヴェトナムを縦断した人からよく聞く話しでもある。
地図を片手に歩き始めた街もまた、意外にもという言葉を冠した上で、よい印象を持った。あくまでも6年間の時差があった上で、それも南部と北部との違いがあった上での比較だから、そもそもあまり意味を為さないのかも知れないが。ハノイは通過だけで、日程のほとんどはハロン湾で過ごすつもりだったのだが、この雰囲気ならハノイ滞在も悪くない。いや、むしろもう少し居てみたいとさえ思わせた。
一人旅の高揚や緊張感は以前と同じではない。それなりに楽しいけれど、もし6年前の旅でハノイを訪れていたのならば、おそらくは何十倍も魅力的に感じられたに違いない。
道路には、バイクが溢れている。川の流れのように絶え間なく。クラクションを伴いながら。車優先とも言うべきバンコクの交通事情にはとっくに身体が馴れている。だけど、ハノイの街は、またそれとも違った何事かがありそうだ。だが、僕にはルールが存在するのかどうかするはっきりとは分からない。道を渡るときに、自分の命が大切ならば、右と左とを同時に見なくてはならないのだ。車線はあることにはあるのだが、ずいぶんと自由度の高いものとして認識されている気がする。
自分でも驚いたのだが、空気がキレイだなという感想を抱いた。目の前のバイクの群れを見ると、どう考えても僕の感覚がおかしい。いかにバンコクの空気が汚れているか、ということでしかない。
歴史博物館と革命博物館を観光したが、そんなに興味が引かれるものでなかった。もう一つ観光のつもりをしているのは、「水上人形劇」。今ひとつ具体的なイメージがわきにくいが、ハノイの名物なのだと言う。午後8時の回のチケットを買っておく。座席表によると、なんと幸運なことに最前列の真ん中だった。
ホアンキム湖(僕の目には少し大きめの池のように映る)の北側に広がる旧市街地は、路地が入り組み、活気に溢れている。旅人が好きになる街の空気が漂っている。カトマンドゥのタメルとも似た趣がある。
何というかここは、絵になる街だと思う。街路樹が多いことも気分を和ませる要素の一つかもしれない。道路名を示す標識、通りに面した食堂、あまり日当たりの良くないアパートのベランダ、診療所の看板……そう言った街を構成する要素の何もかもが写真におさめておきたくなるように印象的なのだ。実際、フィルムの枚数制限を気にする必要のないデジカメを持っているので、あちらこちらでシャッターを切った。よもや6日間の滞在で、128Mのスマートメディアがいっぱいになることもなかろう。
目にする色は、どこかしら色そのものプラスαの趣を持っている。道路名が書かれた青い標識の青も、午後の陽射しと調和することで、独特の作品の色遣いのようにすら見える。
あちこちからバイクが声をかけていく「どこへ行くんだ」「乗っていけよ」等々。彼らも別に声をかけた相手が全員客になることを期待しているわけでもないのだろう。微かに首を横に振るか、一瞬だけ合わせる視線にノーを含むことで終わる。
一人だけ熱心に後を追ってきたのがいた。「どこへ行くんだ」という問いに、肩をすくめて応じたら「ノーウェイか」と返されたのはおかしかった。確かに、僕はノーウェイな状況にあるのかもしれない。
来た道とはできるだけ別の道を通ってみる、というのは僕なりの旅の方法の一つだ。限定された期間しか滞在しない旅の途上の街では、そこを知る少しの機会をも活用したい。同じ道を辿ると容易に戻ることができるけれども、むしろ迷うことさえあったとしても「来た時とは違う道」というのは何かしら予想外の出来事をもたらしてくれることがある。
今回、この行動によって、僕は一軒のバーに入った。ごく普通の路地に面していて、何気なく風景として通り過ぎるところだったのに、目がその店を捉えた瞬間、半ば自動的に立ち止まっていた。
絵になる街の、映画を撮りたくなるようなバー。別段美しい内装なわけでもない、圧倒するほどの酒瓶が並んでいるわけでもない。だけど、午後3時のハノイの街に完璧に調和している。僕もまるでそのスクリーンに登場する一人の人物になれるような感覚を抱かせる。
カウンターの奥には「トカゲ」「タツノオトシゴ」というラベルが貼られた黒い液体の瓶が並んでいる。僕の注文はもちろんビールだけど。「ヴェトナムのビールを飲みたいんだけど」と伝えて、「じゃあ、ハリダかハノイだね」と。まずは、鼻を高く上げた象のラベルのハリダビールで、歩き続けた身体を休める。
店内の一定光量に目が慣れると、開け放たれた扉から向こうの風景が、むしろ非現実的に見える。午後3時にビールを飲んでいる僕の方が、どちらかと言うと現実から離れてしまっているのだが。
続いて、ハノイビール。こちらの方が柔らかくて僕は好みだ。ハリダは少々クセがある。
ゆるゆるとした酔いの感覚を抱いて、旧市街区を歩いてホテルへ戻る。ここは路地ごとに同業者が集まっていておもしろい。ある通りは、墓石がずらりと並んでいる。その店の前では、みんなコツコツと新しい商品を彫っている。何に用いるのかよく分からないが「西方極楽」と書かれた赤い旗がずらりとぶらさがっている通りがあったたり、オモチャ屋筋や竹問屋筋、金物屋通りなどなど。
ベッドに寝転がってのんびりしていたら、気づくと眠っていた。既に外は暗い。もしや水上人形劇を見逃したかと(チケットは4万ドンもしたのだ)、慌てて時計を見たらまだ6時を回ったところだった。
着いたばかりの時から、ハロン湾へどのような手段で出るかを考えていたのだが、結局はツアーに乗ることにした。バスターミナルまで行ってチケットを買って、向こうで宿を探して、湾をめぐるボートを雇ってという手間が、考えている内に次第に面倒に思われてきたからだ。それにツアーだからと言って、決して高い料金ではない。
ホテルのフロントで、翌朝出発、二泊三日のツアーを申し込む。二日目にトレッキングがあり、「半日コース」と「一日コース」の選択ができた。半日を選ぶ。丸一日かけて山登りをする趣味はからっきし持ち合わせていないのだ。3ドル値切って、25ドルを支払う。宿とハロン湾クルーズのみならず、食事も全てついてくる。
時間はまだあるので、のんびりと歩きながら劇場へ向かう。夜でもまだまだ店は賑やかに開いている。
水上人形劇の客席はほとんど埋まっている。埋まりすぎていたのかもしれない。僕がA7の座席にいると、別の人が「私のチケットもA7なのですが……」とやって来た。僕の左側に座っていた何人かも同じような羽目に陥っていた。どうも部分的にダブルブッキングがあったみたいだ。でも、係員は最前列の他の席を指さして、「じゃあ、空いているからそこに座って下さい」という対応だった。誰も困らない。
劇は花火を吹く龍の登場で始まった。舞台にはもちろん水がはられている。その上を人形が動く。舞台の端には、楽隊がいる。セリフもそこのおじさんがつけている。黄金の亀や、魚や、偉い人の行列や、人形には色々とバリエーションがある。爆竹も鳴る。
だけど、別におもしろくなくはないけれど、瞠目するほど楽しいものでもない。半分くらいの時間でもよかったのではないかと個人的には思う。
夕食は、人が集まっている屋台を選んで、「それ一杯ちょうだい」と日本語と手真似でフォーを頼む。一口に屋台と言っても、ハノイのそれは椅子がものすごく低い。20センチほどの高さだから、ほとんど地面に腰掛けているような感覚だ。竹籠に入った麺を一人分つかんで、簡単に湯がく。丼に入れ、鶏肉を乗せて汁を注ぐ。テーブルにはライムと、唐辛子のペーストが置かれている。適当に味付けをして、すする。量がけっこうあるので、これでお腹がふくれた。さっぱりとした味でおいしかった。
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