めぐる

 宿から数軒離れた小さな店の狭い間口の所で、大ぶりの豚マンが蒸されていたので、熱々のそれを頬張る。出発に備えてホテルの向かいの雑貨屋で水を買ったら、昨日空港から同じバスに乗ってきたノルウェー人と出会った。結局彼も、客引きに誘われて同じホテルに泊まったのだと。さらに、同じく今日からハロン湾のツアーに出かけると言う。(名前を聞いたが、馴染みの薄い音の連なりだったので、記憶できなかった)
 乗り込んだバスでも隣の席に座った。紅河を渡り、市街地を抜けると、あとはずっと畑の風景が続く。昼前に一度土産物屋で止まったが、それ以外は僕は概ね眠っていた。
 港近くで昼食のレストランへ。中華料理のような円卓を6、7人ずつで囲む。中に、日本人女性がいた。彼女は北京在住の弁護士なのだと。彼女の連れもおそらくアメリカ人だと思う。アメリカ留学の経験もあるそうで、すごいスピードの英語を操っていた。僕とも日本語では話しをしていない。こういう場ではマナーにかなっていると思う。年齢はおそらく僕とさほど変わらないような気がする。こうやってエネルギッシュに動いている人を見ると、僕の精神も鼓舞される。
 それから、夫婦でしょっちゅう旅行をしているという夫妻もアメリカ人だった。気のよさそうなおじさんとおばさんの口から「トゥルファン」とか「ウィグル」なんて地名を聞くのは、正直ちょっと驚いた。
 予想していたよりは食事はよっぽどおいしかった。各種のおかずに、白いご飯が大量にあったが、これがヴェトナム式の食事なのだろう。味は、さっぱりとした中華という感じがする。ただ、粘りの少ないインディカ米を、プラスティックの箸で食べるのだから、日本人である僕ですら時としてうまくご飯をかたまりとして口に運ぶことに困難があったが。
 船に乗り込んで、まずは鍾乳洞見物のために島の一つに立ち寄った。僕が知っている鍾乳洞と少し違って、水気がない。乾いた場所に鍾乳石がある。どうやってこれほどの広い空間が出来あがったのか不思議なくらいの場所だ。ただ、趣には欠ける。サーヴィスのつもりか、所々が緑や赤やオレンジやらでライトアップされているので、拍子抜けしてしまう。
ペンギンのふりをしたゴミ箱
 あまりぱっとしない印象ではあった。最も興味を持ったのは、ゴミ箱だった。イルカの形をしたり、ペンギンを象ったりしているのだが、どう見てもそれは「うる星やつら」に出てきそうな愛嬌で大口を開いてゴミを待っていたからだ。
 再び船が進む。どこか特定の目的地へ向かっているのか、あるいはぐるりと一周して港へ戻るのか、僕はよく知らなかった。ツアーのパンフレットもほとんど読んでいないし、何も考えなくても寝るところへ連れて行ってもらえるという安心感から。
 だから、この船があとどれくらい海を行くのかも定かではなかった。ずっと舳先に腰掛けて、次々に現れては通り過ぎて行く石灰岩の島を見ていた。
ハロン湾
 海面はまるで湖水のように穏やかだ。岩山に生える植物の色を反してか、ねっとりとした緑色をしている。曇天だが、雨の感はない。暑くも寒くもなければ、風すら吹かない。現実感というものが、一定の割合で薄くなっている。伝説によると、ハロン湾には龍が眠ると言う。あまりに深い龍の眠りに、波も太陽の光も音も、そして現実さえも吸い込まれててしまったかのように感じる。いつ果てるとも知らない白日夢に、僕はずっと漂っている。
洞穴の向こう
 途中で一度「これはオプションだけど、小舟に乗り換えてトンネルをくぐってみませんか」という誘いがあった。背の高い人なら船の上からでも少しかがまいとならないいような岩と海との合間をくぐって、海のたまりのような場所へ。トンネル以外はぐるりと岩山に囲まれている。どうやってこんな風にドーナツみたいな場所ができたのだろう。閉ざされているため、海面はぴくりとも動かない。山の奥の静かな沼とも思える。確かにここは海の上なのに。ますます現実感が色を失っていく。
 何もしない、眼前の風景の流れるに身を任せる。しかし決してそれは飽きる種類ものではない。むしろ世界でここでしか出会うことのできない風景なのだ。こういう感覚や時間の過ごし方は、旅をする理由の一つなのだと思う。
 でも、現実に船は目的地へ到着する。キャットバ島。かなり年期の入ったバスに乗り換え、一行は山道を行く。島の逆側に出たのだろうか、そこは湾に面して街が開けていた。あまり手際がよいとは思えないガイド君の指示に従って、ホテルへチェックイン。「一人で泊まると追加料金がいるから、シェアしないか」とノルウェー人に誘われた。よいタイミングである。
 ホテルは意外にも真新しい。同じような感じのホテルがいくつも並んでいる。たぶん、観光客が激増しているのだろう。僕らの部屋にはエアコンもある。でも、残念ながら湯沸かし器は正常に作動しなかった。
 とりあえずは洗濯をして扇風機の風が当たるように室内に干しておく。
 夕食のメニューは昼と似たような感じだった。同じく大量の白ご飯。同席したオランダ人の夫妻は4週間の休暇だと言う。「一つの国に一ヶ月くらいの旅行が好きなのよ」
 ノルウェイ君は5週間の休暇。僕が「日本だと10日くらいが限界だと思う」と言うと、信じられないという反応だった。僕だって信じられない。
 食後は彼と湖沿いをそぞろ歩いて、ビールを飲む店を探す。結局、湖畔の屋台のプラスティックの椅子に腰掛ける。でも僕は途中でどうにも眠気に襲われて、「悪いけど、先に部屋に戻ってる。鍵は開けておくから」と。水のシャワーを浴びて、ベッドに伏す。


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