街とため息

 出発前日、金曜の夜。
 帰宅途上に買ったタイ東北部風ソーセージの炭火焼きをつまみに、シンハビールの70周年記念ボトルを一本空けただけで、くたりとベッドに倒れ込んでしまっていた。夜9時過ぎに携帯が鳴り、シンガポールに住んでいる高校時代の同級生が、バンコクに出張して来ているという連絡をもらった。彼はこの土日をチェンマイで過ごすとのこと。僕と近い時間のフライトだから、明日の朝、ホテルまで来たら一緒に車に乗って空港まで行こうと誘ってくれた。
 「どこに泊まってんの?」
 「J.W.マリオット」
 ならばうちからタクシーを拾って10分とかかならい。7時にロビーで待ち合わせることにした。
 今回は二泊三日という短さもあって、荷物は非常に少ない。一番重いのはiBook。後は着替えを詰めたくらいだ。
 運が良いのか悪いのか(おそらく、運、不運とは無関係だろう)、チュラ時代の同級生で現在は早稲田の修士に学んでいるのが一人、タイにフィールドワークでやって来ることになっていた。宿を決めるまで数日泊めて欲しいと言われていたのだが、非常に都合がよい。金曜の夜中に家にやってきて、申し訳ないけどソファーなり床なりで好きに寝てもらう。後は鍵を渡して、「まあ、好きにしといて」である。出かけに門番に一言「僕の家に友人が来てるんで、新聞は彼女に渡しといてね」と伝言。
 J.W.マリオットホテルのロビーで友人を待つ。7時を回ったところで携帯が鳴る。「パッキングにあと3分かかる。ちょっと待ってて」
 別に構わない。僕のフライトは8時15分。この場所からならば、すぐに高速に乗れるし、今は土曜の朝。空港までの道も混んでいることはない。早ければ20分もかからないのだ。
 市内から空港は、タクシーに乗れば高速代を入れても通常は300バーツ程度。市内を巡っているエアポートバスに乗れば、100バーツ。逆に空港から市内へは、国際線ターミナルでリムジンを拾っても600バーツ。
 聞くと、このホテルから空港まで、ホテルの車を使うと1000バーツ。なるほどベンツである。車内には冷たい飲み水も用意されている。友人の好意に感謝。会社の金、というのは不思議な物だ。僕にはよく分からない。でも、思うに恐らく彼はそれに十分値する仕事をしているはずだ。
 彼は高校の同級生である。高1のときに同じクラスだった。たまたま同じ部活を選んだ。彼は文系、僕は理系に進んだ。大学で関東と関西に離れた。でも、年賀状のやり取りだけよりは少し上の程度の仲がずっと続いていた。
 不思議なものだ。高速道路を滑らかに走る車内で彼が言った。「あんときさ、全国大会で二人して東京に行ったけど、まさかこうやって同じ車でドンムアン空港に向かうことになるとは」
 まったく、である。

 僕はバンコク発、チェンマイで乗り換えて、ラオスのルアンプラバン行きのタイ国際航空。彼は、つい先日就航したばかりの格安航空会社、ノックエアーでチェンマイ行き。僕の方が少し早い出発になる。不要な荷物は空港で預けておくからという彼と別れて、僕は一人チェックインして搭乗口へ。
 エアバスA330が、鯛焼きではないけれど、文字通り尾翼ぎりぎりの席までみっちりと埋まっていた。
 離陸は予定より20分ほど遅れたようだが、僕は着席してシートベルトを締めるとすぐにずっと眠っていた。離陸後間もなく、簡単なサンドイッチとココナツ味のゼリーそれにコーヒーで軽い朝食。チェンマイまではあっと言う間である。この空港に来ると、周囲に緑なす山があることに懐かしい気持ちになる。同時に、実は僕はそういう光景に餓えていたのだと知らされる。
 東南アジアによくある光景として、首都とそれ以外の都市には非常に大きな格差がある。日本であれば、東京と大阪はそれなりに近しい(人口、規模、情報量etc、圧倒的な差だと見る向きもあろうが、それでもなお)。ところが、タイ第二の都市チェンマイは、僕の個人的な感慨をもってバンコクを東京と準えるならば、チェンマイは大阪でないことはもとより、広島でも札幌でもなく、大分や福井にすら届かず、琵琶湖の傍に佇む東海道線沿線のどこかの静かな駅前の町、というくらいの感じである。
 TG688便。国際線でプロペラ機というのは初めての体験だ。山あいを飛ぶこと1時間。読みかけだった、クリスティの「三幕の悲劇」を、ルアンプラバン空港への最終アプローチに取りかかった辺りで読み終わった。前半はだれたけれど、展開、結末はさすがであった。小学校のときに初めて手にした「オリエント急行殺人事件」を読んで受けたときの驚きと感銘と、「それはないやろ!」という突っ込みの感覚は、未だに彼女の作品で裏切られることがない。
 ルアンプラバン空港到着。ターミナルビルの前に停まったラオス航空の、同じくプロペラ機が給油されている。そして給油しているトラックの全面に書かれた文字が、明確に読める。「燃料」と書かれている。
 ラオス語とタイ語は非常に近しい関係にある。クメール文字を元としたタイ文字は、その後にラオスに流入している。
 20バーツ札を持っていけと勧めてくれた彼の言でも、タイ語は通じるし、街の雰囲気もタイのどこかの田舎のような趣だったとのこと。 
 楽、と言えば楽である。
 イミグレーションの手前で到着時発行ビザを取得し、入国。航空券を購入した際に説明されたのだが、帰国便にはリコンファームが必要とのこと。ものすごく久しぶりに接する単語だ。予約の再確認。そのシステムがまだ存在していたとは。
 手っ取り早く、空港内にあるタイ航空のオフィスへ出向く。一人の男性係員がいた。コンピュータに向かうものの、「ちょっとシステムが不調でね」と。耳に懐かしいアナログ回線のネット接続の音が何度か聞こえる。ぴーぴー、ぴー、がるがるがるがる、ぴーー。
 10分弱待ったが結局ダメだったようだ。「あなたの予約情報はこちらで控えたので、改めてまたリコンファームの手続きをとっておきます。月曜(僕の帰国の日)にまたお会いしましょう」
 軽い荷物の中には、ガイドブックの類が何もない。ogawa氏、チュラの同級生、双方から聞いていた「狭い街。歩いて回れる」というだけが頼りである。
 案内カウンターで、「地図、ありますか?」と、丁寧に訊く。
 「3ドルになります」
 細面の青年が聞きやすい英語で答えてくれる。空港の案内書にある地図が有料だというのは始めてのことだ。続けて「宿は予約されていますか? もしまだなら、ここでお調べして、部屋をお取りできますので」
 宿の価格に関して僕が具体的に持っているのは、唯一、ogawa氏が旅行記で記されていた、ヘリテッジゲストハウスが10ドルというだけだった。最後にはそこに行けばよいと思っていたが、同時に、おそらく同等の宿はいくらでもあるだろうという経験則に基づいた推測も持っていた。
 彼の質問に答える。「ゲストハウスでいいです」「バスルームは共用でもいいです」「安くて奇麗な所を」
 彼は手許のパソコンを操作する。
 「3ドルからありますが?」
 3ドル、である。やはり安い。だが、そこまでの下のラインがあるならば、自分で探したい。最低、3ドルで泊まれるということを教えてもらっただけで十分である。
 さすがに地図がないとどうにもならないので、バーツで支払い一枚購入。それを開くと、中心街まで歩くことは少し面倒に思えるので、同じカウンターでタクシーチケットを買う。トゥクトゥクだった。時速20kmほどで、僕一人を荷台に載せてゆるゆると走る。
 地図と自分の跡を付き合わせている僕に、運転手のおじさんが英語で尋ねた。
 「どこまで行きますか?」
 タイ語が通じるということを思い出し、何の前置きもなくタイ語で言ってみる。
 「ゲストハウスでいいんだけど、10ドルくらいまでで、川沿いに建つ所。できたら清潔な方がありがたい」
 果たして、ラオスという国で、日本人である僕が話すいい加減なタイ語が通じるのかどうか不安は少なくなかったものの、「よし、分かった」という感じにうなずいた運転手は、目標を定め、相変わらず自転車より少し速い程度のスピードで車を走らせた。
 意志は通じていたようだ。「ここでどうだろう」と下ろされた一軒には「ポーシゲストハウス2」との看板が掲げられている。見た感じ、10ドルの料金で十分な感じだった。希望通り目の前にはすぐ川が流れ、何より引かれたのが、そこにテーブルが並び、ビールが飲める環境があったことだ。

ポーシゲストハウス2
 部屋を見せてもらい、一泊6ドルという値段に、交渉する気も起こらず、即座にチェックイン。二つ並んだベッドの上にはバスタオルとトイレットペーパーが置かれている。バスルームもついているし、見たところ給湯器も備わっている。(電気が来るかどうかはまた別の話しである。実際、僕がチェックインしている最中ににロビーの天井扇が回り始め「あら、電気が通じたみたいね」と言われた)
 初日の料金を支払おうとしたら、「チェックアウトの際にまとめて」と言われる。良心的に思える。
 さて、早朝に家を出て到着した目的地、ルアンプラバン。何をするか、である。
 大きな目的は、川を眺めながらラオビールを飲むということ。
 なので、さっそく敢行する。川沿いに並べられた椅子に座り、ビールを。
 土手のすぐ下を流れるメコン川は、泥の色である。ミルクを多めに入れたココアのようだ。しかも、少し煮詰めすぎて、牛乳の膜が表面に薄く漂っているような、そんな色をしている。川幅は200メートルもない。とろとろと右手から左手へ流れていく。この流れは、チベット高原に源を発し、中国の雲南省、ミャンマーを流れ、インドシナ半島の半ばほどではラオスとタイの国境線をなし、カンボジアの東部を南北に貫き、最終的にはヴェトナムの南部から南シナ海に注ぐ。通り過ぎる地名を挙げるだけでも、十分にロマンティックな大河である。
 何かつまもうと、右手を挙げてメニューを持ってきてもらう。ウェイターの彼(同時に、部屋を見せてくれた彼でもある)が、「お好きかどうか分かりませんが、私なら、ビールには『フィッシュトムヤム』です」と薦めてくれる。それに従う。タイ語で言うところの「トムヤムプラー(おかしな説明だが、トムヤムクンで、エビではなく魚入りの)」かとも思う。
 ビールも、フィッシュトムヤムも、出てくるまでに結構な時間がかかる。景色を眺め、揺れる椰子の葉に照らされる光に目を細め、他愛もないことを考えるだけの時間が十分に経過する。でも、そういうものだと思っている。ここの空気がそう思わせる。頼んで3分で出てくることの方が奇妙に思える。メコン川の隣で、椰子の葉越しの光を浴びていると、例え一本のビールでも、注文してから届くまでに15分くらい時間がかかるのが当たり前のように思える。そして、実際それが当たり前なのだろう。そういう世界もあるのだ。世界は広く、そこの必然性は、そこに含まれる人間にとっての必然でもある。
 ビールが届く。グラスには砕かれた氷が詰まっている。「ビールが冷えてないので、氷を入れたんですが、いいですか?」
 「うん、それでいいよ。ありがとう」
ラオビール
 フィッシュトムヤム。その名が僕にもたらした予想よりも、辛味を少し抜いた物が届く。
 スープをすすり、茸やトマトなどの具と共に、少しだけ生臭みの残る柔らかな魚の白身を、硬い骨を外しながら食べ、僕はメコン川の流れるすぐ横にいる。
 椰子の葉の表面が、柔らかな風にあおられ、時として日光を僕の目に向けて反射する。
椰子の木漏れ日
 空港で買った地図にある観光ポイントを予習する。3ドルのその地図の表紙には、「City and Sigh teeing Maps」と書かれている。街と溜め息の地図。なかなかに詩的だ。
 でも、動き回るのはとりあえず明日だ。今日は息抜きの日。ゆっくりとビールを飲み、この明るく心地のよい空気に包まれる。

 不思議なことに僕はここで、つらい記憶を意識的に呼び覚ます。
 裏切ったことと裏切られたこと。一瞬それらは等価な痛みとして、それらが起こった数年後の今この瞬間においても、当時と同じように胸を刺す。昼のルアンプラバンの日射しを受けながら、またしても血が流れる。それは時として他者の血であれ、流れるそれは血を流す対象と密接している僕の皮膚の上をも流れる。その温かさを感じることは、自身の皮膚を裂く痛みを呼び起こすことに他ならない。
 済んだことだ。僕はその直後から、そう理解するように努力してきたのではないのか。そんなことは、よくあることなんだ。何年も昔のことを考えたって、どこにも行かない。そこを一つの分岐点として、今はもう既にまったく違う道にいるんだ。どう考えたってチンパンジーから人間はもう生まれないのと同じことだ。
 だけど、僕は再び傷つく。同時に、記憶の中の人を、再び傷つける。
 だけど、僕は弱い人間だから、自分が誰かを傷つけたよりも、自分が踏みにじられた方をよりつらい記憶だと思い返す。
 ラオビールを飲みながら、僕はチンバンジーとホモサピエンスが分化した太古の枝の分かれ目に立ち戻り、あたかもそのどちらかを選択する権利を再び与えられたかのように、全てをやり直せるかのように、錯覚する。
 あり得ない。記憶は消せないし、修正することも不可能だ。既に長い長い年月が経った。川のように、ゆっくりと、だが確実に流れて行った。

 夕方、雨が降った。雨季である。そして、雨が上がると太陽の反対側の空を見上げてみた。予想通り、低い家並みの向こうの空に虹がかかっていた。
 チェンマイからルアンプラバンへの距離と、タイ北部のウドンターニの街との距離は、ほぼ等しい。人間が国境を越える際にはパスポートだヴィザだが必要になるが、そんなものとはお構いなしに飛んで来るものがある。流れる雲、空を飛ぶ鳥、離れた人の想い……。さらには、もっと実利的な存在がある。タイのテレビやラジオの電波が、ここでも正常に受信できるのだ。タイの通貨がここで使えるという事情と同じように、ラオスにおいてもタイの番組が見聞きされている。(確かめたわけではないけれど、タイ側でこの逆は成り立たないものと推測する、と言うよりも、ラオスの番組に興味を持つタイ人を思い浮かべにくい)。
 だから彼らはタイ語に親しんでいる。僕の拙いタイ語も分かってもらえやすい。彼らが外国語として話すタイ語は、僕の耳には声調の抑揚が少し緩いように聞こえるが、それなりに分かる。これは、陸路国境を持たない国に育った僕には、不思議な体験だ。
 午後6時。聞き覚えのある歌が流れてきた。タイ国歌であった。でも、誰も立ち止まったりはしない。親しんだテレビやラジオから流れては来るが、それはあくまでよその国の国歌なのである。
 夕食を兼ねて、ナイトバザールへ出かける。ポーシの丘の前を走る目抜き通りには、観光客相手の土産物屋が準備を始めている。ラオビールのTシャツや、織物、民芸雑貨に加え、なまはげのように見える人形たちが売られる中、よく目に付いたのがランプを並べた店であった。木枠に紙を貼り付け、中に電灯を吊すようになっている。暮れゆく街並みと反比例して、柔らかな明かりを発している。

なまはげ
 その大通りから右に入る一本の細い小路が、さらに活気を呈している。幅はわずかに7、8メートルというところだ。両側に並んだ屋台は木製の簡単な骨格の上に、トタンやビニールシートをかぶせ、白熱灯がかけられている。ここでは主に食料品が売られていた。
ナイトバザール
 やはりタイと近しく思う。豚の肉や内臓や顔が炭火で飴色に焼かれていたり、洗面器のようなボールにぶっかけ飯用のおかずが並んでいる。
焼き豚屋
 僕は内の一軒で、麺を食べる。米製のちゅるちゅるした麺はタイでも馴染みだが、スープの味はよりあっさりしている。「これも入れる?」と訊かれ肯いた、味噌で炒めたような挽肉が美味い。ビニールのテーブルクロスが敷かれた上には、皿に生野菜が盛られている。適当にちぎって混ぜ込む。バジルの香りが爽やかだ。
 宿への帰り道、道端で売られている卵を二個買う。旅行の直前に、知り合いから「もう10年以上も前だけど、ラオスに行ったときに何でもないゆで卵が無性に美味しかった」と聞いていたからだ。これをつまみにゲストハウスでまたビールを飲もうと思った。
 実際にこの卵が、その人が教えてくれたものだったのかは少々自信がない。僕がイメージするゆで卵からは、少しだけ離れていたからだ。
 殻を割ると、黄身はまだ半熟に近い。それに気付いたので、手を止め、店の人が小袋に入れてくれた塩をそこに振り入れ、ちゅるちゅるっとすする。濃厚な味がする。白身にはあまり興味がないのだが、ていねいに残りの殻を剥きかじろうとする。が、ものすごく硬い。ゴムのようだ。どういう卵なのか、あるいは何か特殊な料理法があるのかわからないが、少なくとも白身は僕にはちょっと食べ物とは思えないほどだった。二個の卵の黄身だけをすすり、ビールを飲む。
 メコンのほとりの満月の夜が更けていく。


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