僕はバンコク発、チェンマイで乗り換えて、ラオスのルアンプラバン行きのタイ国際航空。彼は、つい先日就航したばかりの格安航空会社、ノックエアーでチェンマイ行き。僕の方が少し早い出発になる。不要な荷物は空港で預けておくからという彼と別れて、僕は一人チェックインして搭乗口へ。
エアバスA330が、鯛焼きではないけれど、文字通り尾翼ぎりぎりの席までみっちりと埋まっていた。
離陸は予定より20分ほど遅れたようだが、僕は着席してシートベルトを締めるとすぐにずっと眠っていた。離陸後間もなく、簡単なサンドイッチとココナツ味のゼリーそれにコーヒーで軽い朝食。チェンマイまではあっと言う間である。この空港に来ると、周囲に緑なす山があることに懐かしい気持ちになる。同時に、実は僕はそういう光景に餓えていたのだと知らされる。
東南アジアによくある光景として、首都とそれ以外の都市には非常に大きな格差がある。日本であれば、東京と大阪はそれなりに近しい(人口、規模、情報量etc、圧倒的な差だと見る向きもあろうが、それでもなお)。ところが、タイ第二の都市チェンマイは、僕の個人的な感慨をもってバンコクを東京と準えるならば、チェンマイは大阪でないことはもとより、広島でも札幌でもなく、大分や福井にすら届かず、琵琶湖の傍に佇む東海道線沿線のどこかの静かな駅前の町、というくらいの感じである。
TG688便。国際線でプロペラ機というのは初めての体験だ。山あいを飛ぶこと1時間。読みかけだった、クリスティの「三幕の悲劇」を、ルアンプラバン空港への最終アプローチに取りかかった辺りで読み終わった。前半はだれたけれど、展開、結末はさすがであった。小学校のときに初めて手にした「オリエント急行殺人事件」を読んで受けたときの驚きと感銘と、「それはないやろ!」という突っ込みの感覚は、未だに彼女の作品で裏切られることがない。
ルアンプラバン空港到着。ターミナルビルの前に停まったラオス航空の、同じくプロペラ機が給油されている。そして給油しているトラックの全面に書かれた文字が、明確に読める。「燃料」と書かれている。
ラオス語とタイ語は非常に近しい関係にある。クメール文字を元としたタイ文字は、その後にラオスに流入している。
20バーツ札を持っていけと勧めてくれた彼の言でも、タイ語は通じるし、街の雰囲気もタイのどこかの田舎のような趣だったとのこと。
楽、と言えば楽である。
イミグレーションの手前で到着時発行ビザを取得し、入国。航空券を購入した際に説明されたのだが、帰国便にはリコンファームが必要とのこと。ものすごく久しぶりに接する単語だ。予約の再確認。そのシステムがまだ存在していたとは。
手っ取り早く、空港内にあるタイ航空のオフィスへ出向く。一人の男性係員がいた。コンピュータに向かうものの、「ちょっとシステムが不調でね」と。耳に懐かしいアナログ回線のネット接続の音が何度か聞こえる。ぴーぴー、ぴー、がるがるがるがる、ぴーー。
10分弱待ったが結局ダメだったようだ。「あなたの予約情報はこちらで控えたので、改めてまたリコンファームの手続きをとっておきます。月曜(僕の帰国の日)にまたお会いしましょう」
軽い荷物の中には、ガイドブックの類が何もない。ogawa氏、チュラの同級生、双方から聞いていた「狭い街。歩いて回れる」というだけが頼りである。
案内カウンターで、「地図、ありますか?」と、丁寧に訊く。
「3ドルになります」
細面の青年が聞きやすい英語で答えてくれる。空港の案内書にある地図が有料だというのは始めてのことだ。続けて「宿は予約されていますか? もしまだなら、ここでお調べして、部屋をお取りできますので」
宿の価格に関して僕が具体的に持っているのは、唯一、ogawa氏が旅行記で記されていた、ヘリテッジゲストハウスが10ドルというだけだった。最後にはそこに行けばよいと思っていたが、同時に、おそらく同等の宿はいくらでもあるだろうという経験則に基づいた推測も持っていた。
彼の質問に答える。「ゲストハウスでいいです」「バスルームは共用でもいいです」「安くて奇麗な所を」
彼は手許のパソコンを操作する。
「3ドルからありますが?」
3ドル、である。やはり安い。だが、そこまでの下のラインがあるならば、自分で探したい。最低、3ドルで泊まれるということを教えてもらっただけで十分である。
さすがに地図がないとどうにもならないので、バーツで支払い一枚購入。それを開くと、中心街まで歩くことは少し面倒に思えるので、同じカウンターでタクシーチケットを買う。トゥクトゥクだった。時速20kmほどで、僕一人を荷台に載せてゆるゆると走る。
地図と自分の跡を付き合わせている僕に、運転手のおじさんが英語で尋ねた。
「どこまで行きますか?」
タイ語が通じるということを思い出し、何の前置きもなくタイ語で言ってみる。
「ゲストハウスでいいんだけど、10ドルくらいまでで、川沿いに建つ所。できたら清潔な方がありがたい」
果たして、ラオスという国で、日本人である僕が話すいい加減なタイ語が通じるのかどうか不安は少なくなかったものの、「よし、分かった」という感じにうなずいた運転手は、目標を定め、相変わらず自転車より少し速い程度のスピードで車を走らせた。
意志は通じていたようだ。「ここでどうだろう」と下ろされた一軒には「ポーシゲストハウス2」との看板が掲げられている。見た感じ、10ドルの料金で十分な感じだった。希望通り目の前にはすぐ川が流れ、何より引かれたのが、そこにテーブルが並び、ビールが飲める環境があったことだ。
不思議なことに僕はここで、つらい記憶を意識的に呼び覚ます。
裏切ったことと裏切られたこと。一瞬それらは等価な痛みとして、それらが起こった数年後の今この瞬間においても、当時と同じように胸を刺す。昼のルアンプラバンの日射しを受けながら、またしても血が流れる。それは時として他者の血であれ、流れるそれは血を流す対象と密接している僕の皮膚の上をも流れる。その温かさを感じることは、自身の皮膚を裂く痛みを呼び起こすことに他ならない。
済んだことだ。僕はその直後から、そう理解するように努力してきたのではないのか。そんなことは、よくあることなんだ。何年も昔のことを考えたって、どこにも行かない。そこを一つの分岐点として、今はもう既にまったく違う道にいるんだ。どう考えたってチンパンジーから人間はもう生まれないのと同じことだ。
だけど、僕は再び傷つく。同時に、記憶の中の人を、再び傷つける。
だけど、僕は弱い人間だから、自分が誰かを傷つけたよりも、自分が踏みにじられた方をよりつらい記憶だと思い返す。
ラオビールを飲みながら、僕はチンバンジーとホモサピエンスが分化した太古の枝の分かれ目に立ち戻り、あたかもそのどちらかを選択する権利を再び与えられたかのように、全てをやり直せるかのように、錯覚する。
あり得ない。記憶は消せないし、修正することも不可能だ。既に長い長い年月が経った。川のように、ゆっくりと、だが確実に流れて行った。
夕方、雨が降った。雨季である。そして、雨が上がると太陽の反対側の空を見上げてみた。予想通り、低い家並みの向こうの空に虹がかかっていた。
チェンマイからルアンプラバンへの距離と、タイ北部のウドンターニの街との距離は、ほぼ等しい。人間が国境を越える際にはパスポートだヴィザだが必要になるが、そんなものとはお構いなしに飛んで来るものがある。流れる雲、空を飛ぶ鳥、離れた人の想い……。さらには、もっと実利的な存在がある。タイのテレビやラジオの電波が、ここでも正常に受信できるのだ。タイの通貨がここで使えるという事情と同じように、ラオスにおいてもタイの番組が見聞きされている。(確かめたわけではないけれど、タイ側でこの逆は成り立たないものと推測する、と言うよりも、ラオスの番組に興味を持つタイ人を思い浮かべにくい)。
だから彼らはタイ語に親しんでいる。僕の拙いタイ語も分かってもらえやすい。彼らが外国語として話すタイ語は、僕の耳には声調の抑揚が少し緩いように聞こえるが、それなりに分かる。これは、陸路国境を持たない国に育った僕には、不思議な体験だ。
午後6時。聞き覚えのある歌が流れてきた。タイ国歌であった。でも、誰も立ち止まったりはしない。親しんだテレビやラジオから流れては来るが、それはあくまでよその国の国歌なのである。
夕食を兼ねて、ナイトバザールへ出かける。ポーシの丘の前を走る目抜き通りには、観光客相手の土産物屋が準備を始めている。ラオビールのTシャツや、織物、民芸雑貨に加え、なまはげのように見える人形たちが売られる中、よく目に付いたのがランプを並べた店であった。木枠に紙を貼り付け、中に電灯を吊すようになっている。暮れゆく街並みと反比例して、柔らかな明かりを発している。
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