そうだ、旅に出よう/そうだ、恋をしよう

 月末の三連休を、どこで過ごそうかと考える。どこかに行く、旅をする、ということは始めから決まっていた。
 3月に引っ越しをして、生活も十分整った。7月の頭に開業した地下鉄は、日々の生活に多大な便利さをもたらしてくれた。真新しい駅名表示板のデザインや、タイ語の発音の見本のように美しい車内アナウンスに胸をときめかせた。
 だが、時間の経過と共に、当然の帰結として慣れが生じる。毎朝乗り込む車両と扉も決まってくる。
 大きな満足を抱いている生活ではあるが、同時に物足りなさが芽生える。これじゃないことがあるんじゃないだろうかという疑問は時をおかずして確信に育つ。それは僕の性質としてどうしようもないのだと受け容れている。それより他に策もない。
 そういうとき、僕は我が身の置き場所を変える。
 実際のところ、自分の認識を主体的に変える、あるいは深めることで、日常を変化に富んだものと捉えることも可能なのかもしれない。僕はそこまで強くない。だから、自分を取り巻く風景を変える。吸い込む空気の匂いを変える。
 正直に述べるならば、日常に倦む、そして旅をするというこの過程自体も、既に慣れという巨大な存在にすっぽりと含まれてしまっている。だけど、幸いなことに、僕を飽きさせるほどに世界は狭いものじゃない。
 そこのところがまだよく分かっていなかった時代には、随分と戸惑ったり、空回りする行動をとったり、わけもなく怒りを感じたり、あるいは闇に圧倒され、眠れぬ夜を過ごしてきた。
 だけど、とりあえずの方策の一つとして、旅をするというのは非常に有効だと、今の僕は知っている。
 100%では決してない。悟りを開いたわけでもない。ただ、いずれにせよ時間の経過はあらゆる事物を包括し、以前よりも容易に流れることを助ける。
 あるいは実は、恋をするというのにもそれと似たような効果がある。その、人生のあらゆる方向に多大な影響を及ぼす数多くの内の一つとして。
 取り巻く風景が昨日までとは一変する。全ての物が鮮明に光り輝いて目に映る。下らないことも腹立たしいことも、ほんの些末な存在としてにっこり笑って片づけられる。相手が目の前にいる幸福な間は、世界の全てはその小さな存在に集約されている。瞳のゆらめき、唇の開き、指先の躍動にあらゆる喜びを見出すことができる。離れている時間には、その姿を思い出す、次に会う約束の瞬間を具体的に心に浮かべる。そこに描かれる未来は、必ず晴れた日である。
 だが、ある日ふと思い立ち、すっくと立ち上がり「そうだ、恋をするのだ」と世界に宣言したところで、おいそれと叶うものでもない。むしろ叶わないことの方がざらである。
 僕は旅をする。
 できるだけ多くの地名をリストアップする。旅行代理店や航空会社のウェブサイトをのぞいて、料金やスケジュールを入手する。これまで経験してきたことをそこに放り込みよく混ぜ合わる。よく磨いたグラスを取り出す。そっと、まだ見ぬ味と舌触りのそれを注ぎ込む。未来への、未知への予感のためのレシピだ。はっきりするのは、現地に着いた後だ。本当のところは、実体験してみないとほとんど分からない。
 今回、日本行きもちょっと考えた。タイ航空のキャンペーン価格で、往復1万3千バーツ。だが、二泊三日。せいぜい付け加えてあと一日。いくらなんでも慌ただしすぎる。
 頭に広げた鳥瞰図で、視界をぐっと狭めてみる。バンコクを中心に据えて、フィリピン、カリマンタン島、インドシナ半島、マレー半島、そしてカルカッタ辺りまでの圏内が現実的だろう。
 取り立ててどこに行きたいというのがあったわけではないのだが、頭の中に貯まっている、いずれは行きたい土地のリスト中で条件に当てはまるような土地をぼんやりと検索していたら、ふとルアンプラバンというのが浮かんだ。
 一番大きかったのは、旅と人生の先達であるogawa氏が、昨年バンコク経由でそこまで旅をされていたからだ。改めて、彼の旅行記を眺め、写し出された空気の具合に心を決める。
 メールで様子を尋ねてみると、十分にタイバーツも流通している、とのこと。
 さらに、チュラで共にタイ語を学んだ友人が、つい先日そこを訪れたばかりと聞いた。彼には非常に実利的なアドバイスをもらった。
 「20バーツ札をいっぱい持って行きや。タイよりも物価が安いから、1000バーツなんて使われへんで」
 その話しを聞いてからちょうど一週間。財布に集まった20バーツ札は22枚。ちょっとした束になって膨らんでいた。

 ogawa氏のサイト、ゆ〜らしあ大陸ほっつき歩き


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