街とため息(b)
枕元で電子音が鳴った。どこの誰だ、休みの早朝に電話をかけてくるのは。
何も予定のない三連休を見越してつい数時間前まで飲んでいた酒が、脳髄の細胞の一粒一粒を執拗に溶かしている。
朦朧とした意識の中、ただはっきりしているのは強烈な頭痛と、睡眠を乱されたことへの不快感。それに、マナーモードに設定し忘れた昨夜の自分へのふつふつとした怒り。
ぼんやりとした視界の中、文庫本とウィスキーのグラスとが置かれたサイドテーブルの隅でぶるぶる震える携帯電話を手に取る。ものすごく不愉快な気分のにじむ声が出た。「ハロー」
「おはよう」と、電話の向こうで言った。文字通り、僕は飛び起きた。
「朝早くにごめんね。寝てたでしょう?」
眼鏡を手探りし、時計を見やる。午前7時。うん、まあ、と曖昧な返事しか返せない。二日酔いは完全に消し飛んだ。はっきりとした言葉が見つからないのは、純粋に、電話の主が僕に与えた驚きのせいだ。
「今、バンコクにいるの。深夜便で飛んで、ついさっきホテルに入ったところなのよ」
彼女の説明がうまく飲み込めない。なぜ、彼女がバンコクに来るんだ。あり得ない話ではない。来たければ誰だって来るだろう。僕にそれを止める権利なんてない。それどころか、むしろ心の奥では、そう望んでいたことすらある。でもまさか、現実に起こりうるとは思っていなかった。疑問その二。なぜ、僕に電話をかけてきたのか。
「たぶん、まだ頭の中にお酒が残ってるんじゃないかと思うんだけど」と、言ってから、彼女はくすっと笑った。その声が、僕を少しだけリラックスさせた。理由や背景はともかく、現状を現状として理解する余裕が生まれた。
彼女が今この街にいる。そして僕に電話をかけている。それもどちらかと言うと、好意的な会話の感触だ。そして、やっぱり思い出した。
そこをなぞるたびに、数え切れない針が全身を貫く。褪せることなく目に浮かぶのは、にっこり微笑んだ口許。そして驚きと哀しみに歪んだ瞳。まずそれぞれの部分が思い浮かぶ。引き続いて、それらを同居させた複雑な表情全体が描かれる。
再びどこからともなく、針が空を切るひゅううっという長く冷たい音が聞こえた。身を固くした瞬間、耳に温かな言葉が届いた。
「でね、お酒を抜くためにも、ちょっと早起きして、美味しいご飯でも食べない? ホテルのビュッフェで一緒にどうかしら」
彼女の声は、カーテンの向こうから漏れる土曜の朝の光のように清々しい。長い間忘れかけていたけれど、本当は、休みの日の朝は普段よりも早起きするべきなのだ。
「どこに泊まってるの?」と、僕は現実に立ち戻って訊いた。
「J.W.マリオット」
ならば、家からタクシーを拾って10分とかかならい。これからすぐに起き出して、シャワーを浴びて、髭を剃って、髪の毛を整えて、真っ当な服を着て、最速で20分。素早く計算すると、そこに10分の余裕をプラスして「45分には行けると思う」と、言った。
「うん、じゃあ、ロビーでね」
電話を切ると、右手にそれを持ったまま、ベッドの上で長いため息を一つついた。
その後はもう迷っている暇も、戸惑っている時間もなかった。とにかくまずはシャワーを浴びる。熱めの湯を首の後ろに集中的にかけると、温められた血液が全身をめぐる。シェービングクリームをたっぷりとつけて、鏡を見ながら丁寧に髭を剃る。コンタクトレンズを慎重に目に被せる。髪にドライヤーをあて、少量のワックスで整える。チノパンを履き、クローゼットを開いて、少し考えてから白地に薄いピンク色の格子柄のシャツを選んだ。
* * * * * * * * * *
真っさらな朝だ。空は明瞭な藍色で、濃い白色の雲が椰子の葉の向こうにくっきりと浮かんでいる。門衛が「新聞、持っていかないのかい?」と、声をかけてくれたけれど「そんなの、後でいいんだよ」と、言い残して表通りへ。
タクシーはすぐにつかまった。「J.W.マリオットホテルまで」
運転手は小さくうなずく。
車内のFMラジオが、携帯電話を落とした人の投稿を読み上げている。
「パホンヨーティン通りで個人タクシーに乗車したソムチャイさんは、そのナンバーは記憶にないそうですが、ラーマ4世通りのルンピニ公園前で降車。機種はノキアの3310です。もし心当たりの方がこの放送を聞いていたら、ラジオ局までご連絡を。電話番号は……」
「一致団結、助け合い」というこの番組。タクシー運転手の間には絶大な人気を誇っている。なにがしかのトラブルに遭遇した人が、放送を通じて解決を呼びかけるというもの。
破水した妊婦が乗り込んだタクシーからの通報にこの番組が応じたことで、みっちり詰まった渋滞の間に車一台分の空間が確保され、無事彼女は病院で双子を出産することができた、というのは半ば伝説と化しているが、つい4年ほど前の実話だそうだ。
アソークの交差点で信号に引っかかった。腕時計を見る。7時30分。予定通りだ。前方の高架をスカイトレインが西から東に走って行った。車体には、清潔感溢れるモデルが髪をなびかせた、シャンプーの広告が描かれている。信号が変わる。
交差点を右折し、ソイ4で左折しようとウィンカーを出した運転手を制して「いや、もうちょっと真っ直ぐだったと思う」と、伝える。
「ここ?」「うん、そこを左だね」
車はホテルの玄関に停まり、白い制服に身を包んだボーイがさっと扉を開ける。
「グッドモーニング、サー」
ロビーの天井は高く、一面の窓ガラスからは陽光がたっぷりと降り注いでいる。
これからツアーに出かけるのだろう、家族連れが一組、ガイドと挨拶を交わしている。お出かけ用の服に身を包み、おそろいの帽子を被った二人の子どもの顔は、知らない街への緊張と今日の体験への期待で輝きに満ちていた。その小さな身体に収まりきらない分の好奇心は、背中のリュックサックに水筒と一緒に詰めてあるのかもしれない。
隅の方では、二人の掃除夫が目立たぬように業務用の掃除機を撤収している。一抱えもある花瓶にこぼれんばかりに活けられた蘭の花は、まだ自分たちが切り取られたことにすら気付いていない。ホテルのロビーの何もかもは、まるでたった今この世に生まれてきたばかりのようだ。
僕は、ぐるりと一周させた視線を最初の位置に戻す。足を踏み入れた瞬間から、片隅のソファに座り、絹のクッションを膝の上で弄んでいる彼女の姿はとうに目に入っていた。だから僕は、敢えて首を回し、ふさわしい時間が経ってから彼女を見つけたということにしたかったのだ。
右足から一歩踏み出す。鼓動が早まる。3年前から留まったままの血液が、ダムの決壊のように一気に流れ始めた。何て言えばよいのだろう。あるいは、何を言うべきなのだろう。あまりの緊張に、このまま引き返してしまおうかとも思う。にも関わらず、意志は正しく両足を交互に進める。
目を逸らすわけにもいかない。遅くもなく速くもない足取りで、次第に彼女に近づく。適切な言葉はまだ取り出せない。
彼女が立ち上がる。
僕の口をついて出たのは、しかしとても平凡な言葉だった。
「おはよう」
彼女も少し首をかしげ、まるで眩しいものを見るように目を少しだけ細めて同じ言葉を発した。「おはよう」
「お腹が空いてるのよ。食事に行きましょう」
彼女が先に立って歩き出す。思わずその右手がこちらに差し出されるかに錯覚し、反射的に左手を伸ばそうと肩がピクリと動いた。だけど、彼女の手にはカードキーが軽く握られているだけだった。
淡いピンク色のワンピース姿の彼女を追って、慌てて僕も歩き出す。
朝食のレストランは、既に半分ほどが埋まっていた。
土曜だと言うのに、ビジネススーツに身を固めた人も少なくない。その多くは新聞を傍らにしている。彼らにはしっかりとした予定があるのだろう。今日のやるべきこと、会うべき人、解決すべき課題。紙面が伝達するいかなる情報も、原油の歴史的高騰やイスラム過激派のテロリズムでさえも、彼らを驚かせることはない。「確かに、ある程度の問題には違いないが、想定したシナリオの一つである」と、言わんばかりの確固たる余裕が醸し出されている。
僕はまったく予想外の出来事に流されている。
美味そうな料理が並んでいる、と、客観的に思った。だが、身体は正直だ。各種のハムやソーセージやチーズや、湯気を立てているスープや、色とりどりの果物を見ても、まったく食欲はわいてこない。精神的にはこの上ないほどに覚醒しているものの、明け方近くまでのアルコールはまだ確実に肉体を蝕んでいる。
窓際の二人がけのテーブルに案内された。真っ白なナプキンが、蓮の花の形に折りたたまれて載っている。ボーイにコーヒーを頼むと、彼女はさっさと食事を選びに立った。
コーヒーもう一杯、と付け加えて、僕はとりあえずジュースコーナーへ向かった。そこでトマトジュースをグラスに注ぎ、果物コーナーに並んでいたライムを二切ればかり絞り込む。サラダコーナーでセロリスティックを一本だけつまみ、グラスをかき混ぜた。
席に戻ってトマト味のセロリをかじっている間に、銀のポットから真っ黒なコーヒーが注がれた。
ライ麦パンを一切れとチーズオムレツ、それに焼きトマトとブラックプディングを大きなプレートに載せて彼女は戻ってきた。そして僕の方を見て言った。「遅くまで飲んでたんでしょう」
苦笑しながら肯くより他なかった。
トマトジュースを飲み干したところで、僕はようやく少しだけふさわしい言葉が見つかった気がした。
「旅行なの?」
フォークに刺した焼きトマトを口に運んでいた彼女は、それを皿に置いた。
「出張なのよ。月曜の夜にシンガポールに行かなきゃならなくて。成田から直接飛ぶつもりにしていたんだけど、ちょっとね、思いついてバンコクに寄ってみたの」
「よく僕の携帯の番号が分かったね。こう言っちゃなんだけど、連絡したこと、ないと思うんだけども」
「申し訳ないかなとも思ったんだけど、あの人に教えてもらったのよ」と、彼女は共通の知人の名を挙げた。僕の大学の先輩であり、彼女にとっては同級生にあたる人物だ。「なんだか、彼、何回かこっちに遊びに来たそうじゃない。来月の頭にもまた行くかもしれないって言ってたわよ」
「あの男か」と、僕はため息と共に了解した。いかにも彼のやりそうなことだ。「2、3日前に、チケット取ったってメールをもらったけど、君のことなんか一言も触れてなかった。たぶん今頃東京のどっかで、僕らのこの状況を想像して、一人でほくそ笑んでるんだよ。
これまでに2回来てるんだけど、バンコクの何を気に入ってるのやら。観光らしいことって、僕の知ってる限り、まだ何もしてないはずだよ。バーゲンに出かけてシャツを買ったり、スターバックスでずっと読書してたりするんだ。
こないだなんか、わざわざ一升瓶を運んで来て、僕とそれを飲んでただけ。唯一らしいと言えば、スーパーでタイの食料品を大量に買い込んで、それをトランクに詰めて帰るくらいかな」
彼には悪いと思ったが、少しだけ誇張を交えてこれまでのことを話した。彼女は「あの人らしいわね」と、笑いながら言った。
デザートのアイスクリームを二すくいペロリと平らげた彼女が、今度は僕に質問した。
「今日、何か予定があったんじゃないの?」
僕は首を横に振る。「昼過ぎまで寝て、洗濯機回して、雨が降らなかったらアパートのプールサイドで寝っ転がって読書でもしようっていうのが予定なら、大いに忙しい土曜日になるのかもしれない」
「本、今は何を読んでるの?」
「一冊はクリスティの『三幕の悲劇』。二つ目の殺人が起きたあたりで少し展開にだれたから、気分転換に並行して手にとったのが安吾の『ジロリの女』。これはすごくおもしろい。なんであんなおっさんが、こんなに乙女チックなんだって感動させられる。同時に、ものすごく恋をしたくなる」
「確かこっちって、三連休なんでしょう。どこかに遊びに行くようなことってしないの? 友達っていないのかしら」
「いる。あんまりと全然の中間ぐらいは。だけど、どこかに出かけるような予定は何もない」
「じゃあ、洗濯と読書さえキャンセルできれば、今日一日付き合ってってお願いは聞き届けられるのかしら」
「全然構わない。何もすることがないから、本でも読むかっていうだけのことだから。いいよ、どこだって案内する。何が見たい、王宮とか寺院とか?」
「あのね、バンコクは今回が初めてじゃないのよ。全部仕事の都合だったんだけど、何度か人に案内されて観光めいたこともしたことあるの。だから、まあ、のんびりゆっくりできればそれで十分。うん、プールサイドで静かに読書って魅力的よ」
「いいけど、でも、うちのアパートのプールはそんなに広くはないんだ。それに、休みの日は小さな姉妹がシャチのフロートに乗って飛沫を上げながらはしゃいでるから、希望に叶うかどうか」
「ホテルのプールでもいいじゃない」
* * * * * * * * * *
土曜日の朝の9時過ぎに、なぜ僕はメルセデスベンツの後部座席に座り、静かに運ばれているのだろう。予定によると、カーテンを閉め切った部屋で、頭痛と吐き気と自己嫌悪を相手に勝ち目のない闘いを挑んでいる時間のはずだった。
朝食を終えた彼女は、フロントで何か話をすると、すぐに戻ってきた。「あのね、ここのプールってあんまり広くないんだって。しょうがないわよね、ビジネス向けだし。同じ系列で、リゾートホテルがあるんでそっちの方に移ることにするわ。ちょっと部屋に寄って荷物を取ってくるね。10分くらいロビーで待っててくれる?」
彼女は明るい青色のスーツケースを転がしてすぐに下りてきた。僕はなんだかそのスーツケースに見覚えがあるような気がした。だが、青いサムソナイトなど、ありふれていると言えばありふれたものだ。
「なんで出張にそんな大きな鞄が必要なんだろう」
「しょうがないのよ。どうしてもスーツを2着とドレスを1着は持ってくる必要があったから。パーティーがあるのよ、向こうで。そうしたらふさわしい靴も必要だし、ハンドバッグだって。ノートパソコンがあれば事が済むことも多いんだけど、今回はちょっとね」
僕は、彼女が正装して優雅に会話をしながらシャンデリアに照らされている会場を想像してみた。
「と、言うことは、その中身はスーツにドレス。コサージュに髪留めに化粧道具一式。ネックレスに指輪に、靴にストッキング。後はパーティーの料理を持って帰るタッパーウェアってところかな」
僕の発言は耳に届かなかったのだろうか。ベルボーイにそのスーツケースを手渡すと、さっさと扉へ向かった。
「行きましょう。ホテルが車出してくれるって言うから、ありがたく乗せてもらいましょう」
そこに出てきたのがよく磨かれたメルセデスだったわけだ。
行き先の見当はつく。マリオットのリゾート&スパという、もう一つのホテルが、チャオプラヤ川を少し下ったところにある。バンコク在住者向けの週末パッケージの広告をよく見かける。こちらに単身赴任している友人が、奥さんの来タイ時に泊まったことがあり、「特にプールが森のリゾートみたいでよかった」と、聞いたことがある。
それにしても、なぜ彼女はわざわざ今日の宿泊をキャンセルして宿を移るのだ。プールがあまり広くない、というのは理由になるのだろうか。そして、どうしてホテルが無料で車を調達してくれるのだ。
滑らかに走り出した車内で、僕が状況を確かめようとするよりも先に、運転手が車内のどこかに仕込まれていたクーラーボックスから取り出した冷たいミネラルウォーターを勧めてくれた。
一口飲み込む。身体が徐々に平衡感覚を取り戻しつつある。だけど、僕を取り巻く状況は混迷を深めている。
車は、まだ通行量の少ないスクンビット通りを西に走り、ウィッタユの交差点を左折する。アメリカ大使館を囲む高い塀の向こうに、庭園の緑が見え隠れする。広々としたサトーン通りを、さらに西へ。
右隣に座る彼女は特に口を開くわけでもない。僕は尋ねたいことが山ほどあるような気がするのに、やはりそれらは適切な言葉となって出てこない。見つかったような気がしても、直後に無音のため息となって静かに口から漏れ出るだけだった。
タクシン橋を渡る。午前の陽光を跳ね返すチャオプラヤ川の上を、大小の船が浮かんでいる。
「不思議よね、茶色い川って。こういうのを見ると、異国にいるんだなって実感するわ」と、彼女がつぶやく。
「アユタヤの時代には、山田長政もここを遡って行ったんだ。向こうの大きい船は、米を運んでる。それに、市バスとかタクシーみたいな用途の船も少なくないんだよ」
今度も僕の説明は耳に入らないみたいだった。200メートルばかりの長さがある橋を渡りきるまでの間、右手で頬杖をつきながら、彼女はずっと上流を眺めていた。ビルマ軍の侵攻によって焼失した、かつての王都を思い描いていたのかもしれない。
僕はと言えば、手を伸ばせば届く所にある、彼女の左耳のプラチナのピアスを見つめていた。それは、小さく緩やかに揺れていた。
* * * * * * * * * *
確かに、プールは狭くなかった。40メートル四方はあろうかというメインのプール(一角には、水中に椅子が置かれたバーカウンターもある)を中心に、子ども用の小さなのが二つ、それから少し離れてジャグジーにマッサージコーナー。
ホテルの建物が目に入らないほどに、椰子の木を中心とした緑が鬱蒼と植えられている。プールサイドのデッキチェアに寝そべる人の間を、白いポロシャツに短パン姿の従業員が笑みを絶やさず歩いている。
二つ並んで空いた椅子を見つけると、僕は大ぶりなバスタオルを2枚、ボーイから受け取った。青と白とのストライプだ。まず、彼女の席にそれを敷く。彼女はその上に仰向けになる。
水着にサングラス、肩から羽織った白い薄手のパーカーという、いかにもリゾートな恰好をした姿だが、不思議とよく似合っている。
当然僕は、こんなことになろうなんて予測もしていなかったので、仕方なく家を出たときの恰好のまま、靴と靴下だけを脱いで、その横に寝転がる。
濃い緑の葉の間を透過した太陽光が、時折目を刺すほどにまぶしい。紺色のサングラスをかけた彼女は、目を開いているのか閉じているのか傍目には分からない。右膝だけを軽く曲げ、手を身体の両脇にそっと置いて仰向けのままじっとしている。深く何かを思考しているかのようにも見えれば、穏やかな眠りに就いたようにも見える。
柔らかな水着の曲線を、僕はそれでもちらりちらりと横目で見やる。よく知っていた頃から痩せてもいない、1グラムの余分な脂肪がついたわけでもない。そういうことにはとても厳しい人だった。
昔のことを思い出すには、目を閉じた方が都合がいい。暗闇で交わした言葉や、抱きしめた温もりが甦る。ずっと遠くの記憶は、まだこれから先に起こる出来事のようにも感じられる。彼女と僕がこうやって何も言わずにプールサイドで並んでいる現在は、過去にも遭遇したように思える。
僕はぼんやりとプールの方を眺めながら、深い森と、その奥に湧きだす泉のことを連想している。そこには僕と彼女しかいない。底の知れない緑色を湛えた水辺には、蜜のしたたるマンゴーが黄色く熟れて、枝から重たげに垂れ下がっている。
水音が、時折の風にざわめく葉の音が、遠くに聞こえる船のエンジン音が、僕をいつの間にか眠りへと誘う。僕は、甘く切ない感情に全てをゆだねる。あの頃僕は大学生だった。彼女は本当に素敵な先輩だった。柔らかな水の中を、僕らは泳ぐ。魚のように。温かな水の中を。
小さな窓から青い海が見下ろせる。つないだ手をぎゅっと握る。こうやって色々な所へ出かけた。下を見ると怖いからと、いつも僕が窓際の席だった。飛行機が降下を始めて、重力のバランスが変わる。真夏の沖縄だったか、それとも12月のヘルシンキだっただろうか。右手の空にオーロラが見えますとかすれた声でアナウンスがあった。やっぱりここはサンフランシスコだよ。違うわよ、だってほら、スフィンクスが見えるもの、と君は言う。まだ香港はイギリス領だったね。そう、だからビッグベンが鳴るんだ。くぐもった鐘の音にふと不安がよぎる。ソムチャイさんは失くした携帯電話を取り戻すことができたのだろうか。
ふいにラジオのスピーカーからの音が止まる。来る、と思ったときにはもう遅かった。氷のように冷たい針が、全方位から僕の心臓を目がけて襲ってきた。もう手遅れだ。ここで曲がりますかとバックミラーを見上げた運転手の顔は、口許に微笑みの残像を浮かべて苦痛に歪む彼女の顔だった。
全身がびくんと痙攣して、目を見開いた。
空の明るさに瞳孔が対応してこない。狂った視神経に映るのは、真っ白に明るい空と、真っ黒な椰子の葉との平面的なコントラスト。
「悪い夢でも見たの?」
上半身を起こした彼女は、右手に黄色い飲み物の入ったグラスを持ったまま、僕に不安げな視線を注いでいた。
長い息を一つ吐き出してからようやく答えた。「ううん、何でもない。ちょっと色々と思い出してただけだから」
「楽しいことだけ思い出しなさい。わざわざつらい記憶を呼び覚ますことはないわ」
彼女はグラスの残りを飲み干した。
「何を飲んでいたの?」
「マンゴーマルガリータ」
僕も無性に冷たい物が飲みたかった。喉ばかりか、舌の先までがざらりと乾ききっていた。
ハイネケンの小瓶をボーイから受け取り、二口ばかり飲んだところで雨が来た。腕にぽつりと雨滴を一つ感じたと思ったら、次の瞬間には痛いほど大粒の雨が落ちてきた。客は足早にホテルへ戻る。従業員が、取り残されたバスタオルや置き去りにされたメニューを慌てて回収している。
残っている客は僕ら二人だけだ。だが、彼女が立ち上がる気配はない。しょうがなく、近くのパラソルの下に一時避難する。
「ねえ、部屋に戻らないの?」
彼女はサングラスを傍らに置き、ゆっくりと立ち上がった。その足が向かった先は、プールだった。
「雨で濡れようが、プールで濡れようが同じことじゃない? 私、スコールって大好きなのよ。しばらくここにいるわ」
ゆっくりと手足を動かし、水面に浮かんでいる。雨が、水面を白く煙らせる。強風が辺りの木々を翻弄し、葉に集まった水をまるでカーテンのように空中に広げて見せる。
僕は片手にハイネケンを持ったまま、まるで鼻歌でも歌っているように楽しげな表情をした彼女を見下ろしている。
バーコーナーの軒下に集まった従業員たちも、不思議そうに彼女を見ながら何事かを話している。
「一緒に泳がない?」
無邪気に誘う彼女に、僕は首を横に振り、ビールを一口飲んだ。
たっぷり20分はそうしていただろう。強い雨と風の中、プールは彼女一人のものだった。吹き飛ばされたブーゲンビリアが水面に色を添えていた。
ようやくプールから上がって、僕のいるパラソルの下に戻ってきたときには、僕も既にびしょ濡れだった。ボーイが一人、傘をさして走って来た。僕らの手に乾いたバスタオルを届けてくれた。彼はウィンクしてこう言った。
「当ホテル自慢のプールを堪能していただけましたか」
彼女は「シュア」と答え、僕は苦笑いして「プールサイドの方を、ね」と、こっそりタイ語で付け加えた。
* * * * * * * * * *
シャワーを浴びにバスルームに入った彼女を待つ間、僕はせめてドライヤーで服を乾かそうと努力してみた。だが、風邪を引くような気温でもない。その内に乾くだろうと、右半身がようやく生乾きになった辺りで諦めた。冷蔵庫を開き、シンハゴールドビールの缶を取り出した。
頬の上気した彼女が、Tシャツに短パンという出で立ちで、髪の毛にバスタオルを巻いて出てきた。
「ああ、気持ちよかった。あんなに雨に打たれたのって、本当に久しぶり。南国のスコールって、カタルシスが得られるわよね」
僕も熱いお湯を浴び、生き返った心地がした。濡れたままの服をまとう気がしなくて、仕方なく白いバスローブを借りることにした。
「ごめんね、濡れ鼠にしちゃって。服はとりあえずエアコンの風が当たる所にかけておいたわよ」
首筋までの短めの髪の毛には、真っ直ぐなブラシの跡が見てとれる。左右の髪は、耳にかけられていた。くっきりとした二重まぶたの下の大きな瞳が、たっぷりとはしゃいだ子どものように満足げな色を浮かべていた。彼女はソファ椅子に腰掛け、足を組んだ。
僕は、少し離れた椅子に座り、窓の向こうに視線を移した。
「お腹が減ったからルームサービス頼むけど、何がいいかな。ビールをもう少し飲むんだったら、ピザにしようか? このシーフードタイヌードルっていうのも美味しそうね」
「麺が食べたいんだったら、後でどこか屋台に案内するよ。100バーツも払ってここで食べるより、20バーツのそっちの方がずっと美味い」
結局、シーフードピザとムール貝のサラダを選び、二人でそれをつつき合った。むっちりとしたピザ生地に乗ったチーズは長く糸を引くほどにとろけ、ムール貝はぷりぷりと新鮮だった。思っていた以上に美味しかった。
僕は何本かビールを空け、彼女はハーフボトルの白ワインを飲んだ。懐かしい空気が部屋に満ちていた。窓の外の雨はいつの間にか上がっていた。夕暮れまでにはもう少しある。
「虹が出てるわ」
彼女は窓を開けてバルコニーに立ち、チャオプラヤ川の向こう、高層ビル群の街並みにくっきりと輝く虹を指さした。先ほどの雨のおかげで、めずらしく空気は澄み渡っていた。
僕は、そうだねと応えてから、意識して今日何度めかになるため息をついた。そして、冷蔵庫に入っていた最後の一缶のビールのプルタブを上げた。
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