彼女と二人で

 ソンクラン(タイ旧暦新年)休暇初日のドンムアン空港。午前7時前の出国審査ブースは、これまでに目にしたことのないほどの人で溢れていた。
 家からすぐタクシーを拾い、ディンデーンから高速に上がる。だいたいどの運転手も時速100キロ以上で飛ばしてくれるので、家の門を出てから、国際線ターミナル入り口の自動ドアをくぐるまで、30分かかるかどうかという程度。チェックイン、出国手続き、手荷物検査、そのいずれもさほど時間がかからないので、出発予定時刻の1時間半前に家を出れば十分だという感覚が身に付いていた。
 だが、今日に限っては大事を取って、まだ暗い内に家を出て正解だった。早すぎて時間を持て余すのではないかという不安は、杞憂に終わった。
 端から端まで、そのほとんどのカウンターに係員が座り、次から次へとパスポートに出国のスタンプを押しているが、この分では小一時間はかかるだろうと踏んで、さっそくザックから文庫本を取り出した。
 今回は、須賀敦子のエッセイが3冊。それに、マーク・トウェインの「ハックルベリーフィンの冒険」の上下巻。日割りすると、一日一冊の割り当てになる。まず開いたのは須賀敦子の「コルシア書店の仲間たち」であった。周囲のざわめきや、迫る時間への焦りをよそに、僕はその静かな美文に浸っていった。
 一人が出国するたびに、数十センチ前進する。床に置いたバックパックを引きずり(汚れを気にすることは、とっくの昔に忘れている)、半歩、あるいは一歩前へ。
 この空港には、「優先出国手続きカウンター」がある。ファースト、ビジネスの乗客、それにスターアライアンスのゴールドメンバー限定。
 実際のところ、今回の往路は一時ビジネスクラスで押さえていた。と言うか、初めの内はそれしか空いていなかったから、というだけの理由ではあるのだが。だが結局のところ、予想通りに、エコノミーの、しかもいくつかある内の安いクラスでの予約が確定して、今、僕らは、ここにこうしてじっと正月の出国ラッシュの列に並んでいる。

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 「僕らは」じっと自分の番を待っている。

 この旅の主語は、複数形で語られる。僕たち。僕と彼女。

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 だが、この混雑の空港の数時間後、ヤカイン州のシットウェーからミャウーへ北上する船の中で、その同行者から「旅行記に、私のこと書かないでね。プライバシーよ」と、言われることになる。
 僕は、久しぶりの「初めての国」の旅を、何かしらの記録として留めたい。そのとき、彼女にまつわる記述を全て避けて通ることも、技術的には不可能なことではないかもしれない。だが、そうすると、この旅のあり様を根底で規定する部分もすっぽり抜け落ちてしまう恐れがある。
 4泊5日、基本的にずっと行動を共にし、夜には同じ部屋で眠りに就く。一人称単数だけで語るのは、現実的ではない。
 だから僕は、この旅を共にする相手のことを、固有名詞として提示するのではなく、決して誰とは特定できない形で、あくまで僕の個人的な思い出として記すように留意する。
 そのためには、どういう言葉がふさわしいだろうか。
 代名詞の「彼女」には、不可避的に、この場合において適切でないニュアンスが含まれる。だからと言って、「同行者」と簡単に呼ばわってしまっては、僕と彼女との間に確かに存在する、ある種の特殊な関係を無視することになる。

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 これ以降、この旅の同行者である、僕と特別な関係にある、一人の日本人女性のことは、極めて一般的かつシンプルな普通名詞を用いて記述することにする。母親、と。

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 せやねん。言うなれば、親孝行旅行やねん。なんぼしんどいことになるんやろ。
 確かに、ある意味、旅とか外国とかには慣れてる人や。学生時代にイスラエルで一年近く過ごしたり、ヨーロッパをうろうろしてたみたいやし。大昔の経験やけどな。アジアの暑さとか、ごちゃごちゃした感じとかかて、タイにも二回来てるし、つい二ヶ月前はヴェトナム行ってたらしいから、そんな問題ないとは思う。言葉かて、一時期はTOEICを趣味にしてたくらいで、ま、そこそこのスコアは持ってるんで、そういう意味でこっちが困ることはないとは思うんやけど。
 そんな問題ちゃうねん。せっかくの休暇を母親と一緒かいな。
 一人旅が好きやねんけどな、ほんまに。それか、「彼女」言うても、そっちの意味での「彼女」とやったらええで。そりゃ楽しいと思うわ。
 あ〜あ、あんとき「次はミャンマーに行きます」なんてメールに書かずに、絵葉書で事後報告でもしときゃよかった。

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 後悔先に立たず。飛行機は、早朝の光あふれるドンムアンを飛び立ち、ヤンゴンに向かって北北西に旋回した。


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