灼熱の遺跡めぐり
たっぷり寝た。
何もしなくても、あるいは何もしないからこそ、長時間の移動というのはそれなりに体を疲弊させる。新しい土地に着いたという興奮がその事実を忘れさせ、あれもこれもとはしゃいでしまいがちだが、だからこそ余計に肉体は休息を必要とする。
本当にたっぷり寝た。これだけ眠ったのは何年ぶりだろうというほどだった。エアコンはないけれど、しかも停電で扇風機も動かなかったけれど、それでも暑さで目覚めるということもなかった。
昨日の、国際線(1時間)→国内線(1時間)→船(5時間)という移動がよほどの疲労を我々にもたらしたのだろう。いや、それよりもむしろ、二人でたっぷり飲んだビールのためではないかと思う。
目覚めはこの上なく爽快だった。
「あら、こんな時間なの」と、時計を見て驚く母だが、別に寝過ぎたからとて、何の予定があるわけでもない。我々は休暇のためにここにいるのだ。
コテッジ(あるいは「小屋」と呼ぶ方がむしろ実情にそぐうだろうか)から出ると、宿の従業員が一人「おはようございます。って、早くないですね」と挨拶をしてきた。
彼は少しすまなさそうに言う。
「朝食の準備なんですが……」
僕は遮って言う。「いいよ、別に。こんな時間だもんね。コーヒー一杯だけもらえないかな」
用意されたのは、一杯分ずつパックになった、砂糖とミルクとインスタントコーヒーが混ざった物だった。正しくはコーヒーでもないようだ。ミロに近い物に思える。普段の生活なら絶対に口にしないような飲み物だけど、どうしたわけかこの見知らぬ暑い土地では、目覚めの一杯としてふさわしく思える。
小屋の玄関横に置かれた木製の椅子に腰掛けて、昼の光に目を細めながらすする。目の前の丘には、やはり古びた仏塔が一つ。
さて、遺跡見物に出かけよう。
僕は自転車を借りて一帯をめぐることを予定していた。だが、お年を召した肉体には、それはあまり魅力的な提案として映らなかったようだ。この一番暑い時間帯に外に出たくないとおっしゃる。
「別にええで。母さんは部屋でのんびりしてたらどう? 何にせよ、僕は遺跡を見にここまで来たわけやから、一人でも行ってくるし」と、親の身を気にかける孝行息子を装いつつ、内心ではこう思っていた。
「ラッキー。一人で動いた方が、何かと足引っ張られんですむから楽や」
しばらく彼女は逡巡していた。疲労のことよりも、この熱帯の燦々たる太陽光が、自身の容貌に与える悪影響についてだった。
今さらその肉体に多少皺が増えたり、顔の染みが増えたところで何がどうなるのか僕には理解できなかったが(無限大+1は、やはり無限大である)、彼女の恐るべき思考は次のような言葉として発せられた。
「お父さんに見捨てられたないもん」
この、言葉の弾丸は、僕の片方の耳から入って、脳髄を貫通し、もう一方の耳からきれいに抜けていった。
麗しきかな、愛し合う二人。
だがしかし、彼女は愛より好奇心を選んだ。
「やっぱ、行くわ。でも、自転車はキツイ」
「ほな、まあ、サイカーでも適当に拾って回ろう」
僕だって、これくらいの妥協はできるのだ。
遺跡群へ向かう道すがら、山羊が歩いている。あるいは、井戸で水を汲む人がいる。全体的に、空気はからっと乾いている。土の色は赤い。
直射日光がもたらす愛の危機を避けるために、すっぽり帽子をかぶり、大きなサングラスをかけた彼女の姿は、まるで往年の左翼の闘志のように見える。
彼女の意識はしかし、米帝の侵略からも、人民の搾取からも超越したところにあった。
「あ〜、まるでイエスの時代やね」
聖書の風景と対比させて、眼前の景色を見ていたのだった。そこら中に、仏塔が建ち並び、僧が歩く中において、である。
僕は何とも言えない気持ちになって、意見する。
「あのなぁ、ミャンマーやで。『大昔』ってことを表したいんやったら、せめて『ブッダの時代』って言われへんか?」
サイカーの座席に乗った我々の横を風景がゆっくりと流れていく。彼女は僕を嘲笑うかのごとく、反論する。
「あかんねん。ブッダの時代って言うたら、キリストの500年くらい前やろ。そんな前とも感じがちゃうねん。厳密に表現せなあかん」
昼下がりのミャウーの空気は、あくまで熱く乾いている。
まず、1571年建立のダッカンゼイン寺院へ。軍人がいて、赤い毛氈を巻いたり、何かの後片付けのようなことをしていた。
階段を上がり本堂に入ると、薄暗い回廊の両側に石造りの仏像が並んでいる。顔の作りは、タイのそれとはまた異なって、どちらかというとのっぺりしている。何というか、原初的な感じを受ける。たまに口に紅をさしたものもある。
ブッダの身体的条件というものがある。仏教の考えにおいては、そもそもブッダは特定の一人を指すわけではない。いつの世にか現れる、叡智にたどり着いた人であり、肉体的特徴からそれを知ることもできる。曰く「螺髪」「耳が長い」「舌が長く、額まで届く」「指紋が円形」「足の裏が完全な扁平」などなど。
加えてここの仏像は鼻の形がぺちゃっと大きい。ミャンマーの民族の特徴なのか、あるいは時の為政者の顔立ちを模したのか。
所々に開けられた明かり採りの窓からは、強烈に白い日光が射し込むが、全てを照らすには物足りない。全体的に、薄暗く、そして深閑としている。
回廊はおそらく、大きな渦を巻くような形で作られていた。ゆっくりと周囲を回りながら、徐々に建物の内側へ進み、最後には中心部の金色の仏像にたどり着いた。
一本道なので、帰りは当然同じ道を戻ることになる。出口近くで、少年僧の一団に出会った。
母が言う。「一緒に写真撮られへんかな」
そして何事かを何語か知らないけれど、ごにょごにょと話しかけた。彼女なら、たぶん、ピカチュウとだって意思を通じさせられるのではなかろうか。
たぶん、彼らにとっては、カメラに写されることが珍しい。だから、好奇心と共に快く並んでくれた。少年と呼ぶにもまだ年端のいかない彼らの、僧としての今後の人生は、世俗を超越したものになるのだろう。その後ろに立つ一人の日本人女性も、ある意味においては、やはり世俗を超越してしまっている。
建物から出ると、まだ軍人がぱらぱらといる。緊迫感というものはさして感じられない。母は、さらにここでも彼らと一緒に写真を撮ることを僕に要求した。快諾してくれた初老の軍人と共に、シャッターを切る。
だが、母の欲求は留まるところを知らない。傍らに立てかけられた銃を見て「わー、本物や。あの、これ、触ってみてもいいですか?」(それが何語で発せられたか、僕の理解の外にあるが、内容的にはこの通りだ)と、兵士に尋ね、返答を待つまでもなくその錆びた銃を手にした。「うーん、ずいぶん重いもんなんやねえ。はい、どうもありがとう」
先ほどのサイカーが入り口で僕らを待っていた。言葉はよく通じないのだけど、たぶんこのまま半日遺跡巡りに付き合ってくれる気なのだろう。彼も手っ取り早く稼げるだろうし、僕らとしても面倒が省けてよい。
地図にあるミャンマー語を示して、遺跡群を貫く一本道の一番奥へ行ってもらう。
かつて、スリランカからの仏典を収めた書庫だったというピタカタイ。石を積み上げた建物は、保護のためにがっしりした鞘堂で覆われていた。
書庫、という割には小さなもので、ぐるっと一回りして30秒、中に入って出てくるまで15秒というほどのものだった。これが唯一現存しているものだが、かつてはいくつもあったのだそうだ。
元来た道を引き返す格好で、ランブワンプラパゴダ。高さは10メートルほどあるだろうか、どっしりしたパゴダ。境内に入ろうとすると、サイカーの彼が、靴を脱ぐように身振りで伝える。
太陽に熱せられた石畳が、よく焼けていて、この上なく熱い。目玉焼きの気持ちがよく分かる。じっと立っていられなくて、ぴょこぴょこ跳ねながらそれでもパゴダの周りを一周する。二人できゃーきゃー言いながらなんとか見物を終える。僕は水かけ祭り対策にと持ってきていた水鉄砲で足の裏を冷やす。
道の両側には、多少の起伏の中に、いくつものパゴダが並んでいる。全てを見たいという欲求はあるのだが、いかんせん熱い。再び目玉焼きになるのも逡巡される。あまりに暑いその道のりに、自転車なぞ乗らなくてよかったと、母に感謝。たくさんあるなぁ、という思いだけを抱いて、シッタウン寺院。
丘の上に、むっちりしたストゥーパがきれいに並んでいる。
やはり入り口で靴を脱ぎ、階段になっている参道を上る。屋根が着いているので、涼しい。何か行事でもあったのか、階段の両側には人が大勢いて、しゃべったり寝転がったりしている。
これを遺跡と呼ぶのは少し憚られる。ごく普通に現役の寺である。ミンブン王によって建立されたのが1535年。
「日本で1500年代の前半って言うと、何があるん?」と、母に問うてみる。彼女は歴史が好きな人なのだ。
「せやねー、本居宣長かなー」
「は?」
いくら日本史に疎い僕にでも、その返答は奇妙に聞こえる。
母が前言を撤回する。「ちゃうちゃう、毛利元就や」
「も」と「り」しか合ってない……。彼女の脳味噌の構造は、一般のそれとはかなり異なってできあがっているに違いない。
本堂には、棚状になった壁に数え切れないほどの仏像が祀られている。ご本尊と思しき金色の仏像へ続く狭い廊下は、まるでバリ島にいる鬼のような顔をした像が彫り込まれていた。ただ、正直なところ、これだけではとりたててどうこう言うほどおもしろい場所ではない。
だが、このシッタウン寺院の真骨頂は、目立たぬ小さな入り口から始まる。人がようやく行き交えるほどの狭く、そして薄暗い廊下に、無数の石窟のレリーフや、仏像が並んでいる。外から見たこの建物の規模からはとても信じられないほどに廊下はどこまでも続く。
レリーフは、くすんだ赤や黄色の彩色が残っている部分もある。仏教施設なのだが、どう見てもガネーシャのような像もある。
そしてまた、人間の1.2倍スケールほどの座した石彫りの仏像が何体も並び、座禅を組み、目を閉じ、穏やかに沈思黙考している。
さらに奥に進むと、両手で持てる程度のサイズの金色の仏像がずらっと並ぶ。多くはその黒い台座の部分に白いミャンマー文字で何事か書いてあるのだが、おそらくは寄進した人の名前ではないかと思う。中には、「WILHELM TECKER RIEPEN GERMANY」なんて書かれたものもある。
通路は狭まり、すれ違うことも難しいほどの狭さになる。至る、ということが体感的にうまく作られている。
仏足石があり、終点には金色の仏像。狭い閉鎖された空間で、蝋燭が煌々と燃え、線香が炊かれている。そこで祈る人がいる。厳粛な雰囲気だが、かなり煙たい。
こういう派手なご本尊よりは、道すがらの細かな細工や何体も並んだ仏像の方が、僕にとってはおもしろい。来た道をより時間をかけるようにゆっくり引き返す。近所の子どもだろう、外国人が珍しいのか、きゃっきゃきゃっきゃと言いながら、まるで僕らを先導するように辺りを走り回っている。時折、仏像の後ろに隠れていたのが急に飛び出してきて驚かされる。
いったん外に出て、ストゥーパの立ち並ぶ区域を見学しようと思うが、直射日光に照らされた地面は、やはり十分に熱せられていて、とてもそれどころではなかった。
寺の案内版によると、ここには8万の彫像と8万の遺物が納められており、別名「八万寺」。ベンガルの12の地方とポルトガルの侵略への勝利を記念して建立されたため、さらに「戦勝寺」でもある。
先ほど非常に興味深く見て来たばかりの回廊は、5つの部分に別れ、仏陀の生前の姿が550体も彫られているそうだ。
お堅い説明がありながら、「下記の服装の方は入場をご遠慮ください」となるのだろうか、おそらくそういうことを示す看板は、8万の彫像も、550体の仏陀も、あっさり消し飛んでしまうものだった。
さて、我々はここで休憩を挟む。朝食なのかブランチなのか、おやつなのだろうか。起きて最初の食事で、時間は夕方近く。
レストランの二階に陣取り、まずはミャンマービール。やはりここでもカレーと、添えられた各種のおかずを勢いよく咀嚼し、そしてビールを飲む。二人で大瓶を3本ばかり。
多少日が傾いたあたりで、考古学博物館へ。かつての王宮の敷地内に立つが、王宮跡自体は、小高い場所に塀がわずかに残るばかりであった。
展示品には、インドや中国の匂いがほどよく混じっている。当時の絵に描かれた建物は、中華風の塔だし、王らしき人が乗っているのは白象だ。かつて、東西の人がこの地に行き交っていたことが、明らかに伺える。そういう感じは、僕はすごく好きだ。
アーナンダカントラ碑文に用いられているのは、非常に初期のサンスクリット文字で、世界的にも希少だなものだと説明されている。そもそも紀元4世紀から10世紀に君臨した各王による記述で、その文法、意味、発音に多少の違いはあれど、パーリ語に由来を持っており、仏教伝搬を示す証拠である、とのこと。
日も暮れ、夜には再び、市場近くの店で、マンダレービールを飲みながら夕食。
昨夜もやって来た、英語を勉強しているのだという地元のおっちゃんが現れて(彼は、外国人を見つけるとつかまえて話しかけていた)、一緒に辺りをそぞろ歩く。
薪を燃料に、中華鍋のような形状の鍋で、丸く平べったいクレープのような物を焼いている。母が買ったので一口つまむ。素朴な味と甘さだった。
僕は佃煮のように加工されたタガメを一匹つまむ。個人的に、少しだけ食虫文化に興味がある。その店に並んでいたのは、コオロギやカナブンなど、タイでもおなじみの物だった。さすがにこちらは、いくら彼女と言えど、手が出なかった。
僕とて、ずっと以前に、酔っぱらった勢いで話のネタにでもという程度の意識で食べたときに、意外にもその味がよかったので、以来たまに口にするようになったくらいだ。その見た目に抵抗があるのは十分理解できる。でも、虫は美味しい。それに、高タンパクの栄養源でもあるのだ。
代わりに、どうしたわけか彼女の興味を捉えたのは、郵便ポストだった。立ち止まってしげしげと眺めている。僕の目には、普通のポストにしか見えないのだが、おもしろいと思う対象は、まったくもってそれぞれである。
トップページ