ムーミン・ワールド

 頭の中にある「いずれは行きたい土地」のリスト。たまにぱらぱらとめくって思いを馳せることもあれば、親しい友達がそこへ行って来たと聞いて臍を噛むこともある。
 ユーラシアの西の果て、ロカ岬は、ここ10年以上の憧れ。イースター島のモアイ像、ナスカの地上絵、エジプトのピラミッド、ラップランドのオーロラ、オクトーバーフェストのミュンヘン。ニューヨーク、ハワイ、シドニー。ケニア、マダガスカル、セイシェル、カサブランカ。日本国内では、白川郷、遠野、乳頭温泉、小笠原諸島。メキシコのリゾートカンクンからのジンベイザメダイビング、グレートバリアリーフ、紅海。そのほかそのほか。
 それなりに長い地名リストを持っているが、思わぬときにふとした弾みで「済み」のチェックが入るところもある。
 今回の旅行では、ふいに二個所をクリアすることになった。
 一つはパリ。当初、北欧だけを計画していたときに、妹からこんなアドバイスをもらった。「悪いことは言わんから、中央部の都市も組み込んでおいた方がいい。日本に初めて来た外国人が秋田と青森だけ見て帰るとしたら、どう思うよ。東京や京都や大阪も行った方がええやろ?」
 と、いうわけで、ロンドンやウィーンやブリュッセルやミュンヘンなどを比較検討した結果、パリに足を伸ばすことになったのだ。
 そしてもう一つ、ナーンタリ。実際に調べてみるまで、ナーンタリという地名は知らなかったのだが、街そのものではなく、そこにあるムーミン・ワールドが目的だったからだ。
 偶然何かの拍子にそのムーミン世界を表したテーマパーク、ムーミン・ワールドというのがフィンランドにあるということを知り、行きたい土地リストに加わった。
 ただ、どちらかというと北欧そのものへの興味は、オーロラの魅力の方がまさっていた。2年ほど前の年末年始には、スウェーデンのユッカスヤルヴィにある氷のホテルへの滞在を含めた旅程を考えたこともあった。そして、そのときにムーミン・ワールドを旅程に含めることはできなかった。
 なぜなら、ムーミン谷の住人は冬眠するからだ。僕らがこの谷を訪れることができるのは、彼らが活動する6月から8月の間だけ。
 今回、「そうか、北欧の夏と言えばムーミンだ!」と思い出して決めた目的地である。
 2、3年前に日本語に翻訳されているムーミンの話を総ざらいして読んだことがある。アニメーション作品としてのイメージが強いけれど(そしてそれはそれで可愛くて楽しい)、トーベ・ヤンソンのオリジナルの物語は、どちらかというと静かに暗くてとろりとしている。洞窟の奥深くに眠る、澄み渡った何億年も昔の地下水の貯まりを想像するような読後感だった。
 幸いタイ語にもなっているので、妻も事前に読んでいた。ちなみにタイ語の本の装丁は、日本の文庫よりかなりよくできていて、少しうらやましい。
 ただし、正直に言って、例えば東京ディズニーリゾートなんかと比べてしまうと、おそらくはちゃちなもので、めいっぱいテーマパークを楽しむと言うよりも、一度は行っておきたかった所へ足を運んだ、ということができればじゅうぶんだと僕は考えていた。
 ディズニーランドへ行ったこともある妻へも、その辺りは事前に正直に伝えておいた。「あまり、期待はせん方がええかもしれへんなぁ」と。
ムーミンワールドへの案内
 真っ青な朝の空がこの上なく気持ち良い。さっそくにムーミン・ワールドへの標識を発見し、写真に収める。歴史を感じさせる、パステルカラーの普通の民家が並ぶ中にムーミン。わくわくしてくる。
 宿から徒歩で10分ばかりで海へ出る。ヨットハーバー横のレストランで、ビールとオープンサンドウィッチで軽い朝食。妻はなぜだかアイリッシュコーヒーを注文。朝から濃い物を飲むもんだと思っていたら、一口すすって顔をしかめる。
 「ええっ。これ、アルコール入ってるやん」
 どうやら、ウィンナーコーヒーか何かの仲間だと思っていたらしい。
 「ムーミンの消印を押してもらえる郵便局」があるので、事前に絵はがきを出す相手の住所録を作っておいたのだが、肝腎のその紙を持ってくるのを忘れていたことに気付く。いったん引き返して再度。
 ヨットハーバーを通り抜けたその向こう。一本の橋でつながった小島の全体がムーミン・ワールド。
 足早に渡り、チケットを購入。小さな子ども連れの人がほとんどだ。
ムーミンの家
 さっそく入場すると、水色の丸い建物に赤い三角錐の屋根がかぶったムーミンの家。おお、これぞ。
 そしてその前のベンチにさっそく見つけた。スナフキンとスニフが座って何かを話している。ほどなくスナフキンは赤いギターを奏でながら歌い出す。
 僕らをはじめ、ギャラリーは彼らから少しだけ距離を置いている。スナフキンは着ぐるみではなく、人そのままであるリアルさが遠慮を生み出しているような気がする。だが、ここはテーマパークなのだからと意を決して僕はベンチに近づき彼らと一緒に写真に収まる。と、堰を切ったように他の人たちもぐぐっと近寄って写真をぱしゃぱしゃ。
ミー
 おお、今度はムーミンが登場だ。一緒に歩いてくるとんがり頭はミー。うん、ちゃんと意地悪そうな顔をしている! あともう一人、猫娘みたいな女性がいるのだけれど、何のキャラクターだったのかちょっと思い出せない。(後から思うに、フィリフヨンカではないか)
ムーミン
 嬉しくなって次から次へとシャッターを切る。ムーミンには、小さな子どもたちがひしっと抱きついていて、なかなか一緒に写真が撮れない。僕は一緒に横に立って写っただけだが、妻なんかむぎゅっと抱きしめてしかもキスまでしてもらっていた。
 あ、垣根の向こうの家から歩いてくるのは、スノークのお嬢さんだ。子どもたちより先に見つけた僕らは駆け寄る。黄色い前髪がチャームポイント。やっぱり一緒に写真を撮ってもらう。うわー、肩を組んでくれた。
ムーミンパパの書斎
 ムーミンの家の中を探訪する。パパとママの結婚式の写真があったり、パパの部屋には帆船の写真が飾られていたり、色々なエピソードを思い出しながら嬉しくなってくる。特に仕掛けがあるわけでもないのだが、相当に楽しい。
 島のあちこちにそれぞれのキャラクターの家があって、それぞれを歩いて回る。ヘムレンさんの家には彼が採取した昆虫がずらっと展示されている。トゥーティッキの家では、なんだか子どもに組みひものようなものを一緒に作っていた。ムーミンパパが若い頃に冒険した「海のオーケストラ号」という船もある。
 丘の上には、くすんだ緑のテント。これはスナフキンの住処だ。
 ニョロニョロの谷だってある。(残念だけどニョロニョロは人形の展示だけだった)
 決まった時間に何かしらのイベントが行われているので、それを狙って行動するのだが、ムーミンたちが劇を行ったり、一緒に鬼ごっこのようなことをしたり。合間、合間には、そのキャラクターといくらでもコミュニケートができる。
 妻はムーミンにタイ語の本を見せていた。ちゃんと「わあ、僕の本だね!」というようなジェスチャーを返してくれる。
ムーミンパパ
 シルクハットにステッキのパパ、前掛けをしたママ。ヘムレンさんは虫眼鏡を携えている。何もかもが、ムーミン谷なのである。新しいキャラクターを見つけるたびに僕はその名を呼んでは走っていく。
 妻が言う。「事前に何言うてたか覚えてる? 『ディズニーランドほどはおもんないと思うから、あんま期待してはしゃがん方がええで』って。そのあんたが誰よりもはしゃいでるやないか」
キャラクター
 何せ、キャラクターとの距離が近いのである。親密な雰囲気はテーマパークに遊ぶというより、本当にムーミン谷で彼らと一緒に遊んでいる気がしてくる。
 30をいくつも過ぎた僕が言うのもまったくもってどうかとは思うのだけれど、楽しくってしょうがない。
 こうなったらトコトンやるまで。フェイスペインティングで、僕の左頬にはスナフキンを描いてもらう。妻が選んだのはムーミンパパ。
郵便局
 郵便局で絵はがきを買って、親やら親戚やらに新婚旅行のご報告。切手ももちろんキャラクターもの。すぐにその場で消印を押してくれる。
 昼食を取っているとき、僕は「ちょっとお手洗い」と席を外した。走って先ほどの郵便局へ戻る。妻には内緒で一通を急いで認める。送り先はバンコク、自分の家。宛名は妻である。
スナフキン
 午後にはスナフキンがテントの前で歌を歌い、表情豊かに物語を語ってくれる。言葉は分からないのだけど、僕は地面に座ってずっと見つめている。
 売店でTシャツやらぬいぐるみやらを買う。人へのおみやげもあるけれど、自分で使うものもある。特に妻は真っ白なムーミンのぬいぐるみを気に入っていた。ちなみに店の名前は「スニフのブティック」となっていた。レジには日本人も一人働いていた。
 夕方少し前にここを後にする。堪能した。橋を渡ったところから、町中にあるショップまで汽車の格好をしたシャトルバスに乗る。
 昼食にハンバーガーを食べただけなので、その足でスーパーマーケットへ向かい軽く飲み食いするものを買う。僕はビール、妻はサイダー(アルコールの方の)。スモークサーモンやニシンの酢漬けやサラミなんかのそのまま食べられるつまみを調達。
庭でパーティー
 宿に戻って庭にあるテーブルを使ってちょっとした宴。
 いつも、短期間にあれもこれもと欲張ることが多くて慌ただしい旅をすることが多いのだけど、今回ばかりは事前に「そういうのはやめて」と言われていた。今のところ、とてもうまくいっているように思う。植えられている小さな花を眺めたりして、のんびり酒を飲む。
夕食
 夜、と言ってもやはりずいぶんに明るいのだが、宿の人にも薦めてもらた海沿いのレストランへ出かける。ノルウェイの例があったので、さして期待はしていなかったのだが、ここの料理は美味しかった。グリルしたニシンや、スモークサーモン、鮭とジャガイモのクリームスープなんていうのもお腹いっぱいであってもついつい手が出るほどだった。
日暮れ
 ずいんぶとゆっくりと食事を楽しみ、少しずつ日が落ちていく海の風景を味わった。帰り道、一軒の家の窓にムーミンたちの人形が飾られていた。


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