城に泊まる
次の都市間移動は、明日の夕方パリ発のコペンハーゲン行き。もちろん妻もそのことは知っている。
だから僕が「ここは今朝でチェックアウト」と伝えると、「何を言うてるのや」という反応だった。そこはしかしうまいこと説得して(丸めこんで)、パッキングをしたスーツケースを持ってフロントへ。支払いを済ませて、荷物は預かっておいてもらう。
混まない内にと、9時過ぎにはエッフェル塔へ上る列に並ぶ。
階段を歩いて上がると入場料は少し安くなる。鉄骨の中をぞろぞろと歩く人たちも少なくないが、僕らはエレベーターの方の列に並ぶ。
東京タワーと同じで、行ける高さによって値段が変わる。もちろん、最上の展望台までの12ユーロのチケット。
しかし何と言うか、僕は高所が恐怖に思える性質なので、最上の3階展望台までエレベーターを乗り継いで行ったものの、怖くてしょうがなかった。歩いていればまだしも、景色を見るために立ち止まると明らかに足下が揺れているのが感じられ、一層つのる。
フェンスで囲まれた最上部分。見下ろすパリの街並みは、直線のあり方が、まさにヨーロッパなのだと思った。
風景をざっと眺めて、二人で記念写真を撮ったらじゅうぶんだ。せっかく上ったのに何だそれはという妻を半ば無理矢理説得して、大急ぎで地上へ戻った。エレベーターの待ち時間に、頭では分かっているのに、今にもこのまま、塔もろとも地面に倒れ込む錯覚に襲われ、居ても立ってもいられなくなった。
ナディアとかジャンだとか、そんなことを思い出すどころではなかった。
しかし、足が地につけばなんてことない。朝ご飯はとらないままだが、ちょうど12時前にオペラ座近く、カピュシーヌ大通りに構えるブラッスリー「ル・グラン・カフェ・カピュシーヌ」へ。
そもそも「歩き方」で「もともとビアホールを意味するブラッスリー」「アールヌーヴォー調の装飾」「ベルエポックのパリの雰囲気」などの紹介にひかれたことでの選択。
何を食うか。ここでパリで、牡蠣を中心とした生を食うのである。
「海の幸プレート」というメニュー。一抱え以上ある巨大な大皿にぎっしり敷き詰められた氷の上に並ぶのは、「ブルターニュ産クルーズ牡蠣3個、ブロン牡蠣3個、クレール牡蠣3個、スペイン産ムール貝4個、アマンド貝4個、アサリ2個、ハマグリ1個、バイガイ180g、タマキビ100g、エビジャコ80g、テナガエビ3匹」。道端の席だったが、行き交う人が思わず振り返るほどの大きさと豊富な量。警邏中の警察官二人組も「おぉ」と目を見張っていた。
ただし、どれも塩気が少しきつ過ぎるきらいがある。レモンをぎゅーっと搾って、ハウスワインの白をくいくいっと空ける。
続いて、妻が興味を持っていたパッサージュの一つが近くにあるので、腹ごなしをかねて歩いて出向く。途中に見かけた「チャイニーズ・ファストフード」とあるレストランに「SUSHI SASHIMI & THAI」とあったのに、二人して大笑いした。どんなコンセプトやねん。
パッサージュ・デ・パノラマは、いわゆる小間物屋やカフェなどが軒を連ねる商店街のようなもので、天井は明るい光を取り込むガラス屋根が覆っている。「パリに行ったらパッサージュは絶対に行くから」と宣言していた妻だったが閉まっている店が多くて、今ひとつ思っていたほどの感慨を得られなかったようで残念だった。
パリに行ったら……という妻の決意の最高峰、ルイ・ヴィトンでの買い物。昨日訪れたシャンゼリゼ通りの本店は、あまりの人の多さに何も買わずに出てきたのだが、昨日と違い、モンテーニュ大通りに建つ、もう少しシックな支店へ。
店員の対応もさすがで、気持ちよく品定めを楽しむ。幸い、これなら使えるなという僕の財布も見つかった。
ところが支払いに際し、彼女のアメックスが使えない。運悪くアメックスとの通信が不備らしい。僕らだけではなく、他の客も同じ目にあっていた。
「いいよ、とりあえず僕のカードで切れば」と。だが、これまでひょいひょい調子に乗って使っている間に限度額をオーバーしていたようだ。とりあえず、お店の電話を借りて、クレジット会社のパリオフィスに電話をしてみる。
しかし、日本人が対応したものの、客であるこちらが恥ずかしくなるくらいの対応のまずさに苛立って「もういいです」。何せ、基本的なコミュニケーションが成立しないのだ。
「あの、お名前は?」「まともな対応もしてもらえないのに、なんで名乗らないといけないのですか?」「規則ですので」
知ったことか。ガチャン。
もちろん、予備のクレジットカードも持っているが、危険の分散の原則でスーツケースの中。一度、宿に帰ることにする。店員さんに、すぐ来ますので、と伝えて。
(ちなみに後日バンコクに帰ると、「お宅の会社のせいで恥をかいた。アメックスブランドたるものが、どういうわけか」と妻はクレームの電話をしていた。僕は特に三井住友ビザに対して、ささやかにここに記す以外は、特に何もしていない。こういう辺り、強い人だな、と我が妻のことを頼もしく思う)
だが、僕は実は一人、内心であせっていた。約束の午後4時がせまっている。4時に何があるのか、妻には知らせていない。
宿に帰ると、安宿に似つかわしくない、シルクのスーツを着た巨漢の運転手が、これまた大きなグレーのベンツで待っている。手配していたのは僕だが、正直、ここまでとは思っていなかったので、素直に自分でも驚いた。
一番わけがわからず驚いているのは妻の方である。だが、フロントでスーツケースを引き取って、この大きな車のトランクに放り込んでもらう。
行き先はまだ教えないまま、「とりあえずこれに乗って」と。運転手には「申し訳ないんだけど、先にモンテーニュ大通りのルイヴィトンにちょっと寄ってもらえますか」
ようやくと無事に支払いを済ませ、店頭まで見送ってくれた店員さんにお願いして記念写真。
大きな大きな車はパリを北上。座席に備え付けの液晶テレビをつけてみると、北京オリンピックをやっていた。
途中まではシャルルドゴール空港へ行くのと同じ道筋。妻は「また飛行機乗ってどこか行くの?」と尋ねる。
しかし空港の横をすり抜け、車はさらに進む。風景が都市から郊外、そして田園へと変わり行く。シャンティイという街。
蔦に覆われた大きな屋敷に到着。いや、屋敷ではなく、ここは城である。19世紀にははロスチャイルド家の所有でもあったそうだ。
そう、僕が準備していたシークレットは、この城ホテルへの宿泊。その名も「シャトー・ド・モンヴィラルジェンヌ」
一生に一度のことである。少しくらい贅沢な体験をしてみたい。
案内された部屋は広いが、やはり年季が入っている。それに、思っていたほど豪華、という感じがするわけでもない。少しだけ肩すかしを食った気がする。
ガラス窓を内側に開くと、蔦の葉がいい具合に周囲を覆っている。向こうにはずっと森が見渡せる。浴槽はジャグジーつき。これもこの宿の一つのウリで、僕がひかれた理由の一つでもある。どうせ安宿ばかり選ぶだろうから、せっかくの一泊くらいはゆっくり湯につかりたいという日本人的発想。
ここで先ほどのルイヴィトンで買ったプレゼントの贈呈が行われた。
僕はここ数年ずっと、財布の良いのが欲しかった。これまで使い続けていたのは、香港の免税で買ったコーチの財布。何が良いって、小銭入れにたっぷりマチが取られていて、カードのための切れ込みがたくさんあって、それに何よりシンプルに真っ黒。商品カテゴリーでは、女性物である。世に言う「おばちゃん財布」に類する。この上なく使い勝手がよく、多少へたってはいたけどなかなかこれを越えるものが見つからずにいた。
「あたしのもんはええねん。とにかく、財布だけはパリで買ったるからな」と殊勝な妻の申し出。今日、ようやくこれなら使えるな、というものに出会った。
「あたしもブランドもん好きな方やけど、財布でここまで値段が張るっていうのは初めてやわ……」と妻をして言わしめる商品だったが、こういうのは値段ではないのだ。
僕の趣味からして、LVのモノグラムが敷き詰められているものはとてもでないが身の回りに置きたくないから、妻が贈ってくれたそれは、見た目にはごく普通のシンプルな茶色い皮の財布である。あくまで、トータルのデザインのシンプルさと使い勝手の良さで選んでいたら、ルイ・ヴィトンでもかなうものがあった、ということである。
だからと言ってそれが無印良品で同じものがあったから良いかと言うと、それまた少し話が違って、よいブランドで良いもの、というところへの安心感というか、結局はそういうものを所有している自分にとっての充足感と安心感。これもまたブランド品の意味であろうとは思う。
夕食にはまだまだ早いので、まずは城内の探検。曇り空なのが少し残念ではあるが、深く落ち着いた緑の中に、ところどころに赤や紫や黄色やピンクの花が咲き、全体の雰囲気としてはやはり何かしらしっかりしたものがある。
夕食前にまだ時間があるので、バーへ行き、パイパー・エドシック・ブリュット。散歩で火照った体を、キレのいいさっぱりしたシャンパンでゆっくりと冷やす。
満を持してレストランへ。まだ外は明るいが、これからゆっくりと城での夕餐を楽しむのである。
だがしかし期待していた食事は外れ。いずれもぼやっとした味である。サーブしてくれるスタッフも、地元の学校を出たばかりというような感じで、まったくシャキッとしたところがない。期待が高かっただけに、極めて残念である。
しょうがないから酒を飲む。ポメリー・グラン・クリュ・1998年。一夜にシャンパンを2本頼むというのは贅沢であろうが、食事の失望からの反動である。適度に酔っぱらっているので、値段も気にしない。
食後のケーキも、見た目こそイチゴやパッションフルーツなんかがあって、アイスクリームも2種類添えられ見た目はそこそこに仕立てられているけど、甘い物好きの妻も「むむむ」という反応だった。
チーズは10種類以上あったが、まあこれは大きく外さないだろうと、「全部ちょっとずつ盛ってください」で二人でつまんだ。
部屋に戻ると、しかし、せっかくのジャグジーを楽しむこともなく、シャンパンの酔いの中、二人ともすぐに眠りこけてしまった。
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